人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

どっちもどっち

2018-10-28 11:56:59 | スピリチュアル?
宗教やスピには、昔から特定の教師を祭り上げるということが付き物です。
OO先生はシャカ、キリストと同格、あるいはそれ以上だとか、宇宙神にもっとも近い存在だとか...絶対視、偶像視してしまうのです。
肝心の自分自身の内なるものは、ちっとも開かれることはありません。
そもそもそれは、その教えにまつわる観念に囚われていることであり、いつまでも思いを超えたものにつながることが出来ないということなのです。
OO先生や神のことをいくら盛り立てても、自己の実存の開示とは何も関係がありません。
それはその意識の有り様が、二元的に偏っていて、奉じる教師なり、神なりが対象化され、全く自己と切り離された他者のままになっているということです。
そして悟り系スピでは、こうした傾向を二元、分離思考として批判し、非二元的な教えを説き始めたのです。
その物言いようは、個人は居ない、自由意志は無い、時間も、あらゆる変化も無い、すべては完璧...まるで神にでもなったかのようです。
すべてはそう成っているのだから、悟りや安心を求める必要も無い...と言いながらもシッカリとセッションや講演会などへと誘導しています。
そこでは超越的存在としての神など飛び越してしまい、いきなり宇宙的全体だかとつながってしまう...かのようなことが信じられているのです。
違う?...いや、信じようとしなければ、何か苦しい今の現状を変える何かがそこに無ければ、会場に足が向くことは無いってものでしょ...
(生活という切実な問題があるのなら、ご大層なこと言ってないで、"あなたも私も食わなければならないのは同じです。そこに教える、従うという二元性は無い..."とか、正面切って言える教師ならある部分すごーく共感しますが...)
つまり言っていることは、二元的だったり、非二元的だったりしても、教師と信者という構図は変わらないんじゃないですか?
自分が奉じている神は、自分とは関係の無い他者であったり、逆にそういうものがどっかへ飛んでしまい、いきなり宇宙と一つとなるものであっても、そこに本当に生きたものがもたらされているのでしょうか?
神は超越した自己と別在した他者なのか、自己に内在し、自足した直接存在なのか?
そういうことは、そのものに、我々の真の主体に訊かなければ分からないことでしょう。
すべては、そのものが顕現する...そのものあっての話なのではありませんか?
このことが蔑ろにされた時、決めつけた言辞が一人歩きし始めるのです。
そして、いつまでも教えようとする教師と、それに追従しようとする信者とのナレアイ、共依存がはびこり続けるのです。
つまりはどっちもどっちってことでしょう。そう、人間は誰かを担ごうと、何ものかになろうとしようと、教えようと、従おうとしようと所詮どっちもどっちにしかなれないのですi (私もエラそうに言ってますが...)
ある教え、道が始まった契機にはそのもののが現れるということも派生し、時には思い出したかのように、そのものの息吹がもたらされることもあるでしょうが、そのものが思いによって覆われ、主に取って代わった事態に陥ってしまう限り、全一なるものの現成は望めないでしょう。
そんな訳で私は宗教、スピ屋さんが居なくなることを願うばかりです。アーメン...
コメント (7)
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