4年ほど前、私がこのブログを始めた頃は、当時流行の兆しを見せていた所謂ノンデュアリティに一寸傾倒していたのです。
"もう、信じる宗教とか、抽象的な教え、これから何かに到達せんがための修行などでは、私も世界もどうともならないのではないか? 自己と対象との乖離の無い、直接的な道によるしか無いのではないか?"とは今でも、いやそれ以前からずっと感じていることなのですが...
で、"自分以外の神とか霊的ナンヤラなんかを持ち出すのは、非二元的には中途半端なのではないだろうか?"、"元々そういうものとは一つのもので、常住その境地に居ないとイッパシの悟った人とは言えないのではないか?"などといった、はからい心も見え隠れしていたのです。
しかし、それはそういうあるべき自己の在り方というものを観念的に設えているだけであり、現実にはそういう心境になっている訳でもなく、何よりこの身はちっとも頷いてくれないのでした。
そうなると、一生懸命その設えたものに自分を合わせようと目論む...かくあるものと信じ込もうとしてしまう...要するに信じる宗教と同じ穽にハマることになってしまうのです。
この頃は、こんな具合で何とか腑に落ちるものを求めて迷っており、私の精神的な状態は概して低調なのでした。
それから極端な非二元論などに接するなどして、余計その迷いを増幅させるものを感じ、一気に幻滅してしまったのです。
そしてその年の暮、あれこれ頭の中で馳せ巡っている思いを脇へ置いて、原点に立ち返って見ようと思い立ったのです。
というよりも、そのある朝の冬らしからぬ小春日和がそんな気持ちを呼び起こしたのかもしれません。
"あの時もこんなポカポカ心地好い日だったなあ"...それは昭和54年春、私が初めてジンジンと自分の思いを超えた、ある内的感覚ともいうべきものがもたらされたのを身に覚えた時のことです。
その時分はとにかく"そうなったこと"に意識を向ける、向いちゃうことで"そうなる"ことがしょっちゅうあったのです。
何でそうなるかは説明が出来ませんが、単なる心的在り方でない、身体感覚を伴うものがそうさせるようです。それが"身に覚える"と言っているものです。
そして、その30数年前の思いの記憶では点的にしか感じられない、あの時、この時のことがその感覚を通して一直線につながってしまい、それが思い起こしているその現在において、アリアリと時間の流れを超えて甦ってきたのです。
表層的意識では折々"消えた"とか"切れた"と思われていたものがずっと常住していたことが示されたのです。
(このプロセスは当時の記事にアリアリと反映されています)
これは又、あの83年夏の精神的爆発にもつながっていたのは明らかでした。
"そうだ、私の内奥にはこういうものが息づいているのだ"
そしてその夕方、そんなこんなのことに何気なく意識を向けているうち、およそ5年ぶりに神の手がかかり、現臨に捉えられてしまったのです。
これは私が心の持ち方を変えようとか、かくなるように信じ込もうとすることじゃありません。
意識を向ける、否、向く、向いちゃうということは、こっちの思いより先にそうさせるハタラキ的なものがあるということなのです。
私の人世の裏側への道は、このものの自然(じねん)的なハタラキによって始まったのです。
これで暗中模索のうちに開始された、このブログも何かが吹っ切れたように、より"私色"を強めるようになりました。
そして何よりも、私的には起死回生の一寸した"聖霊のリバイバル"に与る事態ともなったのです。
誰のために、何のために書いているのか判然としなかったこのブログですが、一つハッキリしたことは、自分のためだったのですi
こういうことは何時でも書く度にジンジンしてきます。
これをどう読むかはあなた次第ですが...
"もう、信じる宗教とか、抽象的な教え、これから何かに到達せんがための修行などでは、私も世界もどうともならないのではないか? 自己と対象との乖離の無い、直接的な道によるしか無いのではないか?"とは今でも、いやそれ以前からずっと感じていることなのですが...
で、"自分以外の神とか霊的ナンヤラなんかを持ち出すのは、非二元的には中途半端なのではないだろうか?"、"元々そういうものとは一つのもので、常住その境地に居ないとイッパシの悟った人とは言えないのではないか?"などといった、はからい心も見え隠れしていたのです。
しかし、それはそういうあるべき自己の在り方というものを観念的に設えているだけであり、現実にはそういう心境になっている訳でもなく、何よりこの身はちっとも頷いてくれないのでした。
そうなると、一生懸命その設えたものに自分を合わせようと目論む...かくあるものと信じ込もうとしてしまう...要するに信じる宗教と同じ穽にハマることになってしまうのです。
この頃は、こんな具合で何とか腑に落ちるものを求めて迷っており、私の精神的な状態は概して低調なのでした。
それから極端な非二元論などに接するなどして、余計その迷いを増幅させるものを感じ、一気に幻滅してしまったのです。
そしてその年の暮、あれこれ頭の中で馳せ巡っている思いを脇へ置いて、原点に立ち返って見ようと思い立ったのです。
というよりも、そのある朝の冬らしからぬ小春日和がそんな気持ちを呼び起こしたのかもしれません。
"あの時もこんなポカポカ心地好い日だったなあ"...それは昭和54年春、私が初めてジンジンと自分の思いを超えた、ある内的感覚ともいうべきものがもたらされたのを身に覚えた時のことです。
その時分はとにかく"そうなったこと"に意識を向ける、向いちゃうことで"そうなる"ことがしょっちゅうあったのです。
何でそうなるかは説明が出来ませんが、単なる心的在り方でない、身体感覚を伴うものがそうさせるようです。それが"身に覚える"と言っているものです。
そして、その30数年前の思いの記憶では点的にしか感じられない、あの時、この時のことがその感覚を通して一直線につながってしまい、それが思い起こしているその現在において、アリアリと時間の流れを超えて甦ってきたのです。
表層的意識では折々"消えた"とか"切れた"と思われていたものがずっと常住していたことが示されたのです。
(このプロセスは当時の記事にアリアリと反映されています)
これは又、あの83年夏の精神的爆発にもつながっていたのは明らかでした。
"そうだ、私の内奥にはこういうものが息づいているのだ"
そしてその夕方、そんなこんなのことに何気なく意識を向けているうち、およそ5年ぶりに神の手がかかり、現臨に捉えられてしまったのです。
これは私が心の持ち方を変えようとか、かくなるように信じ込もうとすることじゃありません。
意識を向ける、否、向く、向いちゃうということは、こっちの思いより先にそうさせるハタラキ的なものがあるということなのです。
私の人世の裏側への道は、このものの自然(じねん)的なハタラキによって始まったのです。
これで暗中模索のうちに開始された、このブログも何かが吹っ切れたように、より"私色"を強めるようになりました。
そして何よりも、私的には起死回生の一寸した"聖霊のリバイバル"に与る事態ともなったのです。
誰のために、何のために書いているのか判然としなかったこのブログですが、一つハッキリしたことは、自分のためだったのですi
こういうことは何時でも書く度にジンジンしてきます。
これをどう読むかはあなた次第ですが...