人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ご本尊みたいな?

2018-10-17 17:00:32 | スピリチュアル
自分で言うのもおかしいのですが、日頃私がここで書いていることは、一寸かじったら非二元スピで言っていることと変わらないように感じられるかもしれません。
自分を修行などで段々高めていって、何かに達しようとする道がパスされている(ダイレクト.パスー直接的な道)ようなことを言ったりするし...
自分という個人はいない(ように感じる)ということにも触れてみたり...
で...私は元々悟っているのか? んなアホなi
原点に立ち返ってみて、そんなこと絶対言える訳がありません。
この思われた自分を起点にして、一体何が語られようか?
多くの人も多分そうであるように、この自分が何だか分かりゃしないのです。
そうポカンと思っているだけでなく、意識が飛びそうになり、本当にどうにかなりそうになった時、じわーっとそこに臨んだものを通して、自分がかく在らしめられていることを実感されたことがベースになっているのです。
私はお粗末ながらも、そのあらましを伝える語り部みたいな者なのかもしれませんが、真の主体ではないのです。このものあっての私なのですから...
そのものを差し置いて、私は在るとも無いとも、悟ったとも言える訳が無いのです。
主に取って代わることなど出来ません。
その光の照射を受けて確かに私は無くなったようになりますし、又、逆に私がすべてになったようにもなりますが、それはそのものにあってのことなのですi
この私を起点にして、そういうことにしてしまったら、虚無のうちに自己が消え去ってしまうか、それと隣り合わせとも思える、エゴ性をますます強めて、限りなく肥大させてしまうことになるかもしれません。
いくら直接的と言ったって、直接向こう岸には行けません。渡るもの、乗るものというものは必要なのです。
つまり伝わりやすい表現で言えば、私は"ご本尊様"みたいなものを戴いているのです。と言っても通常理解されているような意味合いにはならないのですが...
いつも現臨とか見えざる導師、みたま親など、意味不明の表現で言い表しているのがそれであり、阿弥陀様、弥勒様、主イエス.キリスト、スサノオノミコト...各宗教で奉じられているご本尊は、その"みたて"というか、象徴的、仮現的表現と言ってもいいでしょう。
勿論各宗教を信奉している人の中には、その名で呼ばれているものがそれ以上の意味を持っていることもあるでしょうけど...
それは単純にハタラキと言ってもよく、それと切り離されないものですが、それだけではあのリアルな"人格的瞑合"、"一如"という事態の感じは伝わってきません。
信仰対象としての本尊に囚われると、自己とそのものが分離してしまいます。何よりもそのものは"神、導師、真我"というものが心象の中で一つに重なり合っているのです。
そしてそのものにある時、この私はそのものと一如のものとされる...
そしてそれは又、人一倍エゴ性の強い、自意識過剰な私の落としどころなのです。まさに私の救世主ですi

観方、感じ方はそれぞれなれど、私に示されたことを書いているまでです。
コメント (4)
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