人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

個と普遍の開示

2018-10-14 11:58:19 | 秘教、その他団体
命位様が私に合って戴いたのは、その多くはあくまでもパーソナルな関わりからでした。
大調和協会の会掌としてではなく、一人の人間(そうであって、そうでないような...)として私に合ってくださったのです。
実に勿体ない話です。
でもその私が協会につながることを願っておられたのも当然のことです。
私は大調和協会、その宣べ伝える大調和世界観というものに全的に頷けないもの、赴けないものを感じている...当時の私はここで自分の内面のことを自由に表現出来るには些か口が重く、協会の人たちからは、"一体コイツはどういう人間なのか、何でこんなところに来ているのか分かりかねる"人間に映っていたことでしょう。
命位様からは何度もこんな言葉を聞きました。
「あなたがモノを言ってくれたら大きいんだがねえ...あなたにとっても、協会にとっても...」
我々は自然(じねん)にその関係が開かれることを願っていたのです。
ある時、その核心に触れるような問いかけを命位様から出されたことがありました。これは果たされませんでしたが、命位様が亡くなるまでに徹底的に触れざるを得ないことになったであろうことです。
「協会がどうあったら、あなたの存在が頷いてくれるの?」
私はたどたどしく答えました「私の中にあるものと協会が宣べ伝えようとしているものはおそらく同じものでしょう。しかし、どうしても協会と私の間には障るものが感じられてならないのです。何かが溶け去ってくれないのです...」
これは私がこれまで関わった幾つかの特定の団体、集団に向けていたことでもありました。
"今までの宗教の有り様と協会が掲げる大聖業(おおみわざ)とはかくかく違う...今までの宗教的悟りの世界は個を基盤にしていた、大聖業は関係が基盤になっている..." 私にはこうした普遍的全体から協会を特殊化して、切り離してしまうような言説がことごとく内的に障って仕方がなかったのです。
私がいつもこの普遍なるものとして言い表しているものは、ある感じに基づいているのですが、それは端的に言えば"普ねく開かれている"感じのものです。それはどこまでも開かれているのですi 何よりもこの個と思われた自己が開かれているということなのです。
障るものがある、閉じたものがある...それではここで言っている普遍なるものは生きてきません。
個は個でありつつ、普遍なるものとつながっている...それはミクロコスモス、宇宙的自己の開示であろう...
それはこのちっぽけな自分が到達するとか、段々段階を経て進化するようなことでなく、正しく個にして普遍的なものの開顕でなくて何であろう...
まるで何かが乗り移ったように、私が聞き馴染みのある大調和世界観みたいなことを書いていますが、私には個人の、その次元にとどまるような悟り、覚醒というものは認められないのです。
こうしたことがある教条のようになってしまうと、自己と分離した感じになってしまい、それに信従して行くという数多ある宗教と変わらなくなってしまうのです。
信じ従うのでなく、人それぞれの内なるものの開示無くして、普遍世界の開示も無いでしょう。逆もあり得る...個なるものと普遍なるものは不離のものだから...
開かれるということの無い時、普遍的なものは、どこにも生きた普遍性の感じられない、似て非なる"公共的次元"に成り下がるだけでしょう。
こういうことは今だから口が軽くなって書けるのですが、命位様は私にずっと息づいていた、このようなものも見抜いておりました。
それだけに私が協会に引き合わされた意味について、思いきりブツけたいというのが念願だったのです。
それでその障壁が解かれたかどうか、余計溝が出来てしまうことになったかは分からないですが...
協会、そして命位様とのつながりは結果的には挫折した形になりましたが、そこから受けたものは今もなお私の中に息づいています。

コメント (2)
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