人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私は私でないほど私になる

2018-10-16 04:21:35 | 求道、探究
人間は常に何かになりたがるものです。
精神的な道では、悟った人に、神と一つに、宇宙的自己になろうと...
人一倍エゴ性、自意識の強い私は御多聞に洩れず何度もそんな思いに駆られてきました。
でも、そんなことになればなるほど、何になろうとしているのか分からなくなります(笑)
そして、そうなろうとしているのに、なるべき、あるべき自分とは程遠い、否マトモな人間ですらなれないような、しょーむない自分を見せつけられて、ホトホト呆れる思いにさせられるばかりです。
そんな自分はどんなに高い境地になろうとしても、いつまでたってもそうなってくれません。
しかーし...ここ数年段々そういうしょーむない自分とは別に、宇宙的自己みたいなものが顕わになってくるのを身に覚えています。
顕わになるということは、なろうとするんじゃありません。なっているんですi
"段々段階を上げていって、悟りのレベルを登り詰めて..."なんてのは知らないi
それは元よりこの自分の与り知れないものですが、既にそうなっている、その出ようとするものを感じるほど、そのものとの連なりが強まってくるのを覚えてきます。
つまり私は私でなければないほど私になる感じです。
何故そう身に覚えてくるのか...これはコツと言ったらヘンですが、私は味をしめているのです。
悟ることを諦めたら、常住息づいているものを覚えるようになった...意識が向く、向いちゃう...
要するに何かになろうとしなけりゃいいのですi そうなるのを諦めたらいいのですi 手放すことi
どうしたってなれる訳が無い...だから...なっているものに、顕れ出ようとするものにまかせられるのですi
"ああ...なろうとしてるのになれない...ああ、又、ダメな己を出してしもーたあ"という、自意識過剰特有の強迫観念に囚われることもあまりありません。
そうなろう、なろうとすることは、苦闘に明け暮れたことのあるご同輩ならば、段々エゴ性を強めるばかりだということがお分かりになるでしょう。
すると又、"このエゴがっi オノレーッ"と、飽くなき格闘に明け暮れる日々が...もう一人の私はかく言う...
"ご苦労さんなこったi"
とにかくチッポケな自分など手放して、この中に息づいているものにまかせる...宇宙的自己と一つになってくるようになる...
"それはどうにも始末におけない、このエゴ性など放っとけi"ということです。
そもそもこうしたことは、初めてあの光の照射を受けた時に個我の縛りが突破され、無力化された時に示されていたことなのです。
自分なんか問題じゃないのですi 問題の無いもう一つの桁違いな自分がお在すのですi
私はそのものから告げられているのです。"お前が出るんじゃない、私が出て行くのだi"
だから問題だらけでも、問題は無いのです。
コメント (2)
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