人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

相対的なこと、絶対的なこと②

2018-12-02 13:27:27 | 哲学・思想
古来より人は神に愛、調和、平安といったものを求めてきました。
しかし...神ほど人の心を狂わせたものは無かったのではないでしょうか?
それは勿論、神自体がそうさせたとは言えません。神は分からないものですから...
それは神についての我々の思念に帰されることです。そこから発する歪んだ信念、狂信...
何が人心を狂わせるかと言えば、その思念に"絶対性"が投影されることにあると思います。
神は絶対的なものなのか?
その答え如何により、その場の他者との関係性は天国的なものとも、地獄的なものともなり得るでしょう。
心に絶対的なものを抱くということは、実に諸刃の剣と言わねばなりません。
かつてある人と神、信仰を巡って一寸した議論が起こった時、その人は日頃の温厚そうな人柄が一変して、目がつり上がり、頬を強張らして自説を通さんとしたことがありました。
その人の信念には絶対的なものがあるらしいですが、私はそこに単なるドグマへの盲目的信仰とは言えない、ある内的な絶対的なものとの出会いらしきものが感じられ、そのまま議論を続けていても、議論のための議論に収拾するだけだと感じ、議事は神棚に挙げることにしました。(事を神にゆだねるようなこと。これは絶対的に大切なことですi そこからお互いの理解も生まれるかもしれません)
時処が変われば、私が豹変することもある...いや実際にそうなったこともあるのです。きっと傍らに居た人には狂信者に見えることでしょう。
私は、"神的なものとの実存的出会いには、絶対的な意味がある"という理解を持っていますが、絶対的と言い表すことは、疑うことが出来ないということ、相対が絶してしまうという意味合いがあります。
大事な事ですがそれは全く自己に顕わになるものであり、形として他者との関わりは無くとも自足されるものです。そして人によっては自分の内的世界のことだけで完結することかも分からないのです。
少なくとも私自身は、内的要求というものはそのことに留まるものでは無いと感じてはいますが、他者から共感、理解を得られなければそれで終わる可能性もあるのです。この内的要求は、その絶対的なものが普遍性に向けられているからだと感じているのですが、この他者との関わりの節目において相対を超えるという意味合いが実に重みを増してくるのです。
人は誰でも自己の意識の深部に、この内なる絶対的なものが根付いているようです。
それはある宗教的教えに触れることなどで、ふと思いのどっかに甦えったりするのですが、表層的思考に覆われていて、そのままでは伝わらず相対性を持ったものに歪められるようです。いや、宗教に入り、集団生活を余儀なくされる過程でそうなるとも言えるでしょう。
そして内的要求が"自分が絶対的に正しいと確信していることを他者に承認してもらい、信従してもらう"という風に変質するや、ここで絶対的なものは相対的なものに堕してしまうのです。この他者とは、一人一人考え方も感じ方も違う相対関係としての他者だからです。
個々別々の他者を自己に従わせるには、政治や宗教などではイヤというほど見せられているように、イデオロギー的なもの、集団化する思念にハタラキかけるようになります。
もう、こうなると絶対的なものの暴力という他ありません。
狂信者には自己の内的世界に自足し、そこに留まっていられる者は誰一人居ないと言っていいでしょう。彼は自分がその集団化した思念に隷属するばかりか、他の者をその同類にせずにおれないのです。
想像ですが、私はここに我々の深層に、遠い時代の絶対的権力によってよって支配されていた記憶が根付いているのを感じないではいられません。
時の絶対君主には、"力"に極限された絶対的なものが歪んで投影されていたのでしょう。"神なる王に背けば救われない...一人でも多くの者をその配下にしなければならない..."
神に纏わる思いには地獄の様相が写し出されているよう...
その救いは、思いを超えたもの、神的なもの、一人一人に息づく絶対的なものによることしか考えられません。




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