今、問題を抱えている人、勿論私も含めてですが、何が問題なんでしょうか?
会社や家庭などの人間関係? そうでしょうとも...そうでなくても、"今日の昼飯代が無い、どうしよう"って経済問題? これも社会との関係に起因することですね。病気、怪我? これも働けなくなる、とか社会生活と関わってくることです。
考えてみたら、問題のほとんどは自分以外の他者との関係に起因していると言ってもいいのではないでしょうか?
毎日のように報じられる殺人事件、それが基で今日もどっかで誰かが自ら命を絶ってしまうのです。
そしてテロ、紛争...すぐ火がつくかもしれない核戦争の危機...環境破壊ということにしたって、社会集団という人間の関わりが無ければ起きない問題でしょう。
人間関係こそが問題の種、諸悪の根源ではないかi、何故そんな厄介なもの背負って生きなければならないのか?
"私が私であること"だけで生きていきゃいいだろ...って、この関係性の無い世界など想像したことが無いi どうしたって出来ませんi
無人島に独りぼっちになったら、とか夢想ならいくらでも出来ます。そこへ好きな本とかレコードをもって行きたいとか...もう、その関係性の産物に関わってるじゃないかi
物心付いた頃から、そういうことになっていたんだからしょうがないのです。
それにしても..."ああ、イヤだ、イヤだ、声のデカイ人、でりかしいの無い人、隣の席で貧乏ゆすり、いつまで頭をポリポリやってんだ、ばーかi"
"ややこしい人間関係はまっぴら...無人島はいいから猫の島へ行きたい(マジで)i"
かように私は人間嫌いなのです。だけど...私は猫人間、二重人格です。相反するものが同居していていつも途方に暮れてます。
そして...忌まわしき地獄の様相を見せる人間関係の裏にあるものも知らされています。
それは、他者との関わり、つながりにある自己とも言うべきものです。
自己があり、他者があり、相依りあって関係するというよりは、原初からそのつながりにあるという有り様なのです。
仏陀の縁起というものは、おそらくその消息を伝えているのでしょう。
そも"私が私であること"とはどういうことか?
これは自己を他者と分かつ方に、意識が赴くことでもたらされる自我感覚とは異なり、他者とは分かたれていません。しかもそこにキョーレツな"私性"がある...その"私は在る"感のインパクトたるや、自我感覚からくるものの比ではないのです。それは"私だけ"からは来ない...このつながりからもたらされるのでしょう。
つながりにあるということで、個性というものは?、とは感ずるも、その個性というものは、ここに初めてアリアリと実感されるのです。
("何でそーなるのか?"と言う向きもおられるでしょうが、私は途方に暮れるばかりなので、もっとエライ人に聞いて下さい)
そこには現実世界の人間の集い、幾多もの社会的集団のように、その各々の別個に設える中心位格というものはありません。
相克、闘争の種はどこから来るかと言ったら、幾つもの"正しい中心i"が他に向けて発信され、ヅカヅカと干渉し合うところからと言ってもいいでしょう。中心というのは私自らでは求められません。自ずと意識が引き付けられるある焦点が中心なのです。
私も、つながりにある他者もそのように在らしめられている...個と普遍の調和世界...これを天国の消息と言わずして何であろうかi
あの忌まわしき人間関係というのは、これ在るがためだったのではないのかi
(全く人間ほどバカバカしくも、愛おしいものは無いではありませんか...)
然るに...こんな自明なことが何で現実世界ではそーなっていないのか?
もう、"アフンi"となるしかありませんでした。
そして否応なく現世に戻らされて...途方に暮れるしかありませんでした。
行き着くところまで行ってしまった感のある、この人類社会...どこに突破口があるのやら、途方に暮れるばかり...
だけど...
自明に感じていることって、どういうことなのか?
そうなっているってことなんじゃないでしょうか?
少なくともこれからそうなるものを目指してしているものには、そういう感じは持てません。
地上天国というものは、永久に(見えるように)建設され得ないものなのかもしれません。
ただそういう実感はいつ開かれるか知れません。
裏表というのは、レコード盤のように、一枚になっていてひっくり返したら裏面になるようなのを言うのです。
想像出来ないことは、簡単に想像出来る...ここに在るかのように...そう在らしめるものと共に...
会社や家庭などの人間関係? そうでしょうとも...そうでなくても、"今日の昼飯代が無い、どうしよう"って経済問題? これも社会との関係に起因することですね。病気、怪我? これも働けなくなる、とか社会生活と関わってくることです。
考えてみたら、問題のほとんどは自分以外の他者との関係に起因していると言ってもいいのではないでしょうか?
毎日のように報じられる殺人事件、それが基で今日もどっかで誰かが自ら命を絶ってしまうのです。
そしてテロ、紛争...すぐ火がつくかもしれない核戦争の危機...環境破壊ということにしたって、社会集団という人間の関わりが無ければ起きない問題でしょう。
人間関係こそが問題の種、諸悪の根源ではないかi、何故そんな厄介なもの背負って生きなければならないのか?
"私が私であること"だけで生きていきゃいいだろ...って、この関係性の無い世界など想像したことが無いi どうしたって出来ませんi
無人島に独りぼっちになったら、とか夢想ならいくらでも出来ます。そこへ好きな本とかレコードをもって行きたいとか...もう、その関係性の産物に関わってるじゃないかi
物心付いた頃から、そういうことになっていたんだからしょうがないのです。
それにしても..."ああ、イヤだ、イヤだ、声のデカイ人、でりかしいの無い人、隣の席で貧乏ゆすり、いつまで頭をポリポリやってんだ、ばーかi"
"ややこしい人間関係はまっぴら...無人島はいいから猫の島へ行きたい(マジで)i"
かように私は人間嫌いなのです。だけど...私は猫人間、二重人格です。相反するものが同居していていつも途方に暮れてます。
そして...忌まわしき地獄の様相を見せる人間関係の裏にあるものも知らされています。
それは、他者との関わり、つながりにある自己とも言うべきものです。
自己があり、他者があり、相依りあって関係するというよりは、原初からそのつながりにあるという有り様なのです。
仏陀の縁起というものは、おそらくその消息を伝えているのでしょう。
そも"私が私であること"とはどういうことか?
これは自己を他者と分かつ方に、意識が赴くことでもたらされる自我感覚とは異なり、他者とは分かたれていません。しかもそこにキョーレツな"私性"がある...その"私は在る"感のインパクトたるや、自我感覚からくるものの比ではないのです。それは"私だけ"からは来ない...このつながりからもたらされるのでしょう。
つながりにあるということで、個性というものは?、とは感ずるも、その個性というものは、ここに初めてアリアリと実感されるのです。
("何でそーなるのか?"と言う向きもおられるでしょうが、私は途方に暮れるばかりなので、もっとエライ人に聞いて下さい)
そこには現実世界の人間の集い、幾多もの社会的集団のように、その各々の別個に設える中心位格というものはありません。
相克、闘争の種はどこから来るかと言ったら、幾つもの"正しい中心i"が他に向けて発信され、ヅカヅカと干渉し合うところからと言ってもいいでしょう。中心というのは私自らでは求められません。自ずと意識が引き付けられるある焦点が中心なのです。
私も、つながりにある他者もそのように在らしめられている...個と普遍の調和世界...これを天国の消息と言わずして何であろうかi
あの忌まわしき人間関係というのは、これ在るがためだったのではないのかi
(全く人間ほどバカバカしくも、愛おしいものは無いではありませんか...)
然るに...こんな自明なことが何で現実世界ではそーなっていないのか?
もう、"アフンi"となるしかありませんでした。
そして否応なく現世に戻らされて...途方に暮れるしかありませんでした。
行き着くところまで行ってしまった感のある、この人類社会...どこに突破口があるのやら、途方に暮れるばかり...
だけど...
自明に感じていることって、どういうことなのか?
そうなっているってことなんじゃないでしょうか?
少なくともこれからそうなるものを目指してしているものには、そういう感じは持てません。
地上天国というものは、永久に(見えるように)建設され得ないものなのかもしれません。
ただそういう実感はいつ開かれるか知れません。
裏表というのは、レコード盤のように、一枚になっていてひっくり返したら裏面になるようなのを言うのです。
想像出来ないことは、簡単に想像出来る...ここに在るかのように...そう在らしめるものと共に...