人間は誰しもが幸福を求めています。
今日の物質的繁栄をもたらしたのは、我々の飽くなき幸福の追求にあったと言っても過言でないでしょう。
そう、それは飽くことを知らないのです。
それはまさしく、"これを得られればそうなれる"という、幸福をもたらすモノあっての、実に物質的なものに則したものと言えるのでしょう。
幸福の追求には、モノの追求というものが結び付いている訳です。
そしてそこに"今よりももっと幸福を"、"この幸福がずっと続いて欲しい"という欲求も働き、いよいよ幸福であることと、モノを得ることとが無限ループに嵌まったように、我々をそこに駆り立ててやまなくなります。
これを思う時、「サピエンス全史」で述べられていた、幸福につながるような快感をもたらすという、脳内物質は一種の麻薬かとも思われ、いずれそういうクスリが麻薬と取って代わる時代が来るのか、とも感じてくるのです。
ラマナ.マハルシは、このような我々が望んでいるものと共にある時幸福に感じ、望んでいないものと共にある時不幸に感じるといった、相対的な幸福は「むしろ"快楽"と言われるべきである」と述べ、絶対的、恒久的な幸福と区別しています。
こういうことは、例えばあの、楽しい、OOOをした後のこととかを思い浮かべてみたらいいでしょう。
泡沫のようにあの幸福は消えてしまった...残ったものは虚しさだけ...
この他欲しいものが手に入ったとか、なりたい自分になれた、その後のことでも、大体がこういう心境にさせられるものでしょう。
そして幸福から一転不幸になった感じがしてきます。きっとセロトニンの効果が無くなってしまったのでしょう。
でも...ほとぼりから覚めた時にじんわりと、普段表層的な意識に上らない幸福があるのも確かに認められるのです。
そこでは、それまで心情を支配していた不快な、好ましくない感じだったものが、いつのまにか平安な感じへと化されているのです。これは不幸なこと、不快なことを自ら背負うという、ヤセ我慢?とは関係の無いことです。
これも又セロトニン効果の復活なのでしょうか?
これはしかし、あの絶頂感へと駆り立ててくる快感とは全く感じは違うものです。
そもそも何故我々が、泡のように消えてしまう幸福へと駆り立てられるかというと、満たされることが無いからでしょう。そこに常にある幸福と違って失ってしまうからです。
留まることを知らない無限ループにはまり続けるだけ...全く人類史、世界史を創り出しているのは、かごの中で車輪を足で駆け回し続ける、マウスと大して変わらない、サピエンスだということが思い知らされるではありませんかi
それでも我々は幸福の追求に終止符を打つ訳には行かないのです。"出来ないだろーっi...私は賢者でもなんでもないi"
"幸福ばかりを追い求めていないで、自分の好まないこと、嫌なこと、都合の悪いことも率先して求めるべきなんですよi"って...そんなごリッパなこと出来るかi...私は苦行僧じゃないi"
イヤでも不幸、不快なことはやってきます。逃げないで受け入れなきゃならないこともあります。だけど、自分でそれを求めるなんて...そうしたい人はどうぞi それはきっとウンとデキテル人か、イヤというほど苦悩を味わった事の無い、ノーテンキな人かどっちかでしょう。
人間が幸福を追い求めるのはごく自然なことでしょう。不幸を追い求めるなんて不自然過ぎます。自然であるとは、それが本来のものだからです。
それは外向きの、表向きの幸、不幸の向こうにある幸福のことです。
幸福になるには神に祈り求めねばならない? 神にあれを下さい、これが叶えられるようにと願う? 何でもいいでしょう。それも自然なことだと思います。
でも...ただ神を意識しただけで幸福に満たされるというのは...幸福は神的なものと共にある...幸福は願わずとも叶えられるのです。
人類はそろそろ見かけの幸福の飽くなき追求に疲れてきているように感じています。
こっちが追い求めなくても、あっちが追っかけてくる...
今日の物質的繁栄をもたらしたのは、我々の飽くなき幸福の追求にあったと言っても過言でないでしょう。
そう、それは飽くことを知らないのです。
それはまさしく、"これを得られればそうなれる"という、幸福をもたらすモノあっての、実に物質的なものに則したものと言えるのでしょう。
幸福の追求には、モノの追求というものが結び付いている訳です。
そしてそこに"今よりももっと幸福を"、"この幸福がずっと続いて欲しい"という欲求も働き、いよいよ幸福であることと、モノを得ることとが無限ループに嵌まったように、我々をそこに駆り立ててやまなくなります。
これを思う時、「サピエンス全史」で述べられていた、幸福につながるような快感をもたらすという、脳内物質は一種の麻薬かとも思われ、いずれそういうクスリが麻薬と取って代わる時代が来るのか、とも感じてくるのです。
ラマナ.マハルシは、このような我々が望んでいるものと共にある時幸福に感じ、望んでいないものと共にある時不幸に感じるといった、相対的な幸福は「むしろ"快楽"と言われるべきである」と述べ、絶対的、恒久的な幸福と区別しています。
こういうことは、例えばあの、楽しい、OOOをした後のこととかを思い浮かべてみたらいいでしょう。
泡沫のようにあの幸福は消えてしまった...残ったものは虚しさだけ...
この他欲しいものが手に入ったとか、なりたい自分になれた、その後のことでも、大体がこういう心境にさせられるものでしょう。
そして幸福から一転不幸になった感じがしてきます。きっとセロトニンの効果が無くなってしまったのでしょう。
でも...ほとぼりから覚めた時にじんわりと、普段表層的な意識に上らない幸福があるのも確かに認められるのです。
そこでは、それまで心情を支配していた不快な、好ましくない感じだったものが、いつのまにか平安な感じへと化されているのです。これは不幸なこと、不快なことを自ら背負うという、ヤセ我慢?とは関係の無いことです。
これも又セロトニン効果の復活なのでしょうか?
これはしかし、あの絶頂感へと駆り立ててくる快感とは全く感じは違うものです。
そもそも何故我々が、泡のように消えてしまう幸福へと駆り立てられるかというと、満たされることが無いからでしょう。そこに常にある幸福と違って失ってしまうからです。
留まることを知らない無限ループにはまり続けるだけ...全く人類史、世界史を創り出しているのは、かごの中で車輪を足で駆け回し続ける、マウスと大して変わらない、サピエンスだということが思い知らされるではありませんかi
それでも我々は幸福の追求に終止符を打つ訳には行かないのです。"出来ないだろーっi...私は賢者でもなんでもないi"
"幸福ばかりを追い求めていないで、自分の好まないこと、嫌なこと、都合の悪いことも率先して求めるべきなんですよi"って...そんなごリッパなこと出来るかi...私は苦行僧じゃないi"
イヤでも不幸、不快なことはやってきます。逃げないで受け入れなきゃならないこともあります。だけど、自分でそれを求めるなんて...そうしたい人はどうぞi それはきっとウンとデキテル人か、イヤというほど苦悩を味わった事の無い、ノーテンキな人かどっちかでしょう。
人間が幸福を追い求めるのはごく自然なことでしょう。不幸を追い求めるなんて不自然過ぎます。自然であるとは、それが本来のものだからです。
それは外向きの、表向きの幸、不幸の向こうにある幸福のことです。
幸福になるには神に祈り求めねばならない? 神にあれを下さい、これが叶えられるようにと願う? 何でもいいでしょう。それも自然なことだと思います。
でも...ただ神を意識しただけで幸福に満たされるというのは...幸福は神的なものと共にある...幸福は願わずとも叶えられるのです。
人類はそろそろ見かけの幸福の飽くなき追求に疲れてきているように感じています。
こっちが追い求めなくても、あっちが追っかけてくる...