「一つの太陽の光線が、千紫万紅、色とりどりの草花に咲かしめる如く、キリストの光は個性に一層の輝きを増し加える。個我が個性をのばすのではない。神なる普遍我(キリスト)が個性を咲かしめるのである」(手島郁郎)
いつも感じていることなのですが、この"あるもの"のことは、どのように言い表していいか分かりません。
現臨、神的なもの、ミタマ親、ガイダンス、真我的なもの...ある宗教、例えばキリスト教に縁のある人には、それがキリストとして捉えられるのは、ごく自然なことでしょう。
けれど、それが言い伝えられ、教えられたままのところから、その内奥にあるものに触れることが出来るならば、さらに広く、深い理解がもたらされると思います。
手島先生の言葉からは、その辺りの消息がヒシヒシと伝わってきます。
私がいつも、"このもの"について書き表しているものは、抽象的な宇宙の"絶対神"とか、"全体"、"ワンネス"というような言葉で言い表せるものではありません。
仮にそういうものと一つになったと言いますが、その自分は消えちゃうはずで、一つになりようもなく、言われるように私という個は無くなってしまいそうです。
又逆に、そういうものと仮に一体になってしまえば、このちっぽけな私が直ちに絶対神、宇宙的全体になって、途方もない自分になってしまうのですi こういうことは思い描くことは出来ても、現実的にそういう有り様で生きるのは多分不可能でしょう。
このように、私とこの宇宙的全体とつながることで、私という個人は居なくなってしまうか、スゴい個人を演じる、あるいはそう思い込むしかなくなりそうです。
"つながる"と言う。本当につながることが出来るのはこのものにあっての事ではないでしょうか?
このものとは、私という個人たらしめているもののことです。このものあっての私なのです。
"私はここに在る"という実感もここからくるのです。
このものにあって普遍性に開かれるとは私もしばしば言ってますが、それはこのものご自体が、個と普遍を結ぶ当体だからとも言えるのですが、さりとてそういう存在論的に言い表すことも困難でもある...そして又具体的にキリストとかアヴァターとして顕れることもあろう...要するに永遠のXなのだろうか...私には年中Xマスなのですi
このものはもはや抽象的に、第三者的に説明的に言い表すことは出来ませんi あまりにも自己でありすぎるので...
それはしかし、直ちに私がそうであるとは決して言えないのです。私はチッポケなその部分的表れにすぎないのですから...
最近のスピで"既に悟っている"とか言われるのは、この普遍的な自己についてのことであり、思われた自己についてのことなど実に僭越なことと言う他ありません。
又、悟りを求めて、どういう境地に達しよう、どういう心持ちになろうと色々試みてみる...しかし、中々そういう心境にはならない。
それは限りある私から初めて、限りある私の中で、こっちの心境から、あっちの心境に動いただけのことかも分からないのです。
そうして、そうならない自分と闘い続けなければならなくなるのです。
このチッポケな私の落ち着くところは、今のところ"このものにある"、小池先生的には"エン.クリスト(キリストにあって)"ということであり、又"内なるこのものを戴いている"ということになるでしょうか...
そして、そういう境地になろうとしなくとも、向こうから顕れて下さるのです。ただそこに南無するのみ...
いつも感じていることなのですが、この"あるもの"のことは、どのように言い表していいか分かりません。
現臨、神的なもの、ミタマ親、ガイダンス、真我的なもの...ある宗教、例えばキリスト教に縁のある人には、それがキリストとして捉えられるのは、ごく自然なことでしょう。
けれど、それが言い伝えられ、教えられたままのところから、その内奥にあるものに触れることが出来るならば、さらに広く、深い理解がもたらされると思います。
手島先生の言葉からは、その辺りの消息がヒシヒシと伝わってきます。
私がいつも、"このもの"について書き表しているものは、抽象的な宇宙の"絶対神"とか、"全体"、"ワンネス"というような言葉で言い表せるものではありません。
仮にそういうものと一つになったと言いますが、その自分は消えちゃうはずで、一つになりようもなく、言われるように私という個は無くなってしまいそうです。
又逆に、そういうものと仮に一体になってしまえば、このちっぽけな私が直ちに絶対神、宇宙的全体になって、途方もない自分になってしまうのですi こういうことは思い描くことは出来ても、現実的にそういう有り様で生きるのは多分不可能でしょう。
このように、私とこの宇宙的全体とつながることで、私という個人は居なくなってしまうか、スゴい個人を演じる、あるいはそう思い込むしかなくなりそうです。
"つながる"と言う。本当につながることが出来るのはこのものにあっての事ではないでしょうか?
このものとは、私という個人たらしめているもののことです。このものあっての私なのです。
"私はここに在る"という実感もここからくるのです。
このものにあって普遍性に開かれるとは私もしばしば言ってますが、それはこのものご自体が、個と普遍を結ぶ当体だからとも言えるのですが、さりとてそういう存在論的に言い表すことも困難でもある...そして又具体的にキリストとかアヴァターとして顕れることもあろう...要するに永遠のXなのだろうか...私には年中Xマスなのですi
このものはもはや抽象的に、第三者的に説明的に言い表すことは出来ませんi あまりにも自己でありすぎるので...
それはしかし、直ちに私がそうであるとは決して言えないのです。私はチッポケなその部分的表れにすぎないのですから...
最近のスピで"既に悟っている"とか言われるのは、この普遍的な自己についてのことであり、思われた自己についてのことなど実に僭越なことと言う他ありません。
又、悟りを求めて、どういう境地に達しよう、どういう心持ちになろうと色々試みてみる...しかし、中々そういう心境にはならない。
それは限りある私から初めて、限りある私の中で、こっちの心境から、あっちの心境に動いただけのことかも分からないのです。
そうして、そうならない自分と闘い続けなければならなくなるのです。
このチッポケな私の落ち着くところは、今のところ"このものにある"、小池先生的には"エン.クリスト(キリストにあって)"ということであり、又"内なるこのものを戴いている"ということになるでしょうか...
そして、そういう境地になろうとしなくとも、向こうから顕れて下さるのです。ただそこに南無するのみ...