京都の無教会的キリスト者、私市元宏先生は所謂偶像崇拝について私と同じような観方をされています。
先生のホームページの聖書講話の中で述べられているのですが、偶像崇拝とは、形あるものを拝むということ自体が問題なのではなくて、有限なるものを無限なるものと、相対的なものを絶対視するという、転倒、錯覚した観方が問題だということです。
本質的なことを言えば、心の中に直接的な神的なものを受け入れてゆくという、開かれた意識の在り方でなしに、固着した思念を根付かせてしまうーそれが心の中に偶像を造ることに他ならないー閉ざされた意識の在り方こそが問われるべきなのです。
お分かりかと思いますが、例えば強固な特定の宗教集団に纏わるドグマ、形としての教典への囚われなど、他宗に対して偶像崇拝として糾弾し続ける、キリスト教を始めとした、原理主義的な一神教徒ほどこの実態に無自覚というのが現状なのではないでしょうか?
私市先生のようにこういう事をハッキリ言明しているキリスト者を私は知りません。
ところで偶像崇拝は、一神教によって強調されてきたように、何故悪いこととされるのでしょうか?
悪いことというのは、何らかの不都合があるからそう言われるのでしょう。
"聖書にそう書いてあるから"、"エライ人がそう言っているから"で片付けてしまうからいつまでも無自覚、蒙昧、思考停止のままなのです。
私市先生は、"他の人を生け贄にしてしまうような心的傾向を生み出す"という意味のことを述べておられますが、私はごくシンプルに"心に偶像を刻んで閉ざされた意識状態では神的な生命に与ることが出来ない"からだと思います。精神的に気が枯れてしまう、ケガレてしまうのですi
これは自分自身の意識に中心がもたらされず、分裂してしまうばかりでなく、正しい教えを信じている自分たちは救われる、選ばれた者たちで、異教徒、未信者などは悪魔、悪霊にたぶらかされ、救われない人間と見なすーこれが生け贄ということなのでしょうかーなどして、人間関係に分裂をもたらてしまうことにもなってしまうのです。
こういう人は"自分は自分であること"に自足出来ないのが普通で、意識は集団に従属してしまい、他に向けて正しいとされる信仰を宣布せずにおれないようです
原理主義的な一神教徒の目から観ると、日本神道などは偶像崇拝の最たるものに映るのかもしれません。
神域から祭壇、儀礼に至るまで偶像で溢れているように見えます。
だが、これらは形あるものを通して形なきもの、限りあるものを通して無限なるものを思念するという、古来よりの"手振り"を伝えていることを理解しなければなりません。
私市先生はそれを"見立てること"と言い、これも私と同じ観方をされています。
見立てることは、先の転倒した偶像理解とは、むしろ真逆でこの手振りをしっかり身に付けることによって、そうした迷いから離れることが出来るでしょう。
見立てることに借りられる(これは"仮のもの"という思念が込められている)ものとは、偶像というより雛形、依り代です。それは見えないものの媒体であり、ものそれ自体でなく、ものを通してハタラクものに与るための知恵なのです。(これには偶像崇拝という蔑称はあっても、一般的な名称が無いというのはどういうことかi 主要な世界的な宗教が生まれる以前から存在した、古代宗教の象徴的儀礼の貴重な遺産がこの国にはまだ生きているのですi)
その形ある媒体は、一定の時期に廃棄、燃やされるー焚き上げーのが普通です。何十年も後生大事に盲信される心の偶像とは訳が違います。
神的なものは我々の思いを超えているのです。
この事が意識から離れた時、悪しき偶像崇拝がはびこります。
どこまでも形なきもの、無限なるものに精神は開いてゆかなければなりません。
その望みなき者に神的なものが臨みようがないではありませんか?...
先生のホームページの聖書講話の中で述べられているのですが、偶像崇拝とは、形あるものを拝むということ自体が問題なのではなくて、有限なるものを無限なるものと、相対的なものを絶対視するという、転倒、錯覚した観方が問題だということです。
本質的なことを言えば、心の中に直接的な神的なものを受け入れてゆくという、開かれた意識の在り方でなしに、固着した思念を根付かせてしまうーそれが心の中に偶像を造ることに他ならないー閉ざされた意識の在り方こそが問われるべきなのです。
お分かりかと思いますが、例えば強固な特定の宗教集団に纏わるドグマ、形としての教典への囚われなど、他宗に対して偶像崇拝として糾弾し続ける、キリスト教を始めとした、原理主義的な一神教徒ほどこの実態に無自覚というのが現状なのではないでしょうか?
私市先生のようにこういう事をハッキリ言明しているキリスト者を私は知りません。
ところで偶像崇拝は、一神教によって強調されてきたように、何故悪いこととされるのでしょうか?
悪いことというのは、何らかの不都合があるからそう言われるのでしょう。
"聖書にそう書いてあるから"、"エライ人がそう言っているから"で片付けてしまうからいつまでも無自覚、蒙昧、思考停止のままなのです。
私市先生は、"他の人を生け贄にしてしまうような心的傾向を生み出す"という意味のことを述べておられますが、私はごくシンプルに"心に偶像を刻んで閉ざされた意識状態では神的な生命に与ることが出来ない"からだと思います。精神的に気が枯れてしまう、ケガレてしまうのですi
これは自分自身の意識に中心がもたらされず、分裂してしまうばかりでなく、正しい教えを信じている自分たちは救われる、選ばれた者たちで、異教徒、未信者などは悪魔、悪霊にたぶらかされ、救われない人間と見なすーこれが生け贄ということなのでしょうかーなどして、人間関係に分裂をもたらてしまうことにもなってしまうのです。
こういう人は"自分は自分であること"に自足出来ないのが普通で、意識は集団に従属してしまい、他に向けて正しいとされる信仰を宣布せずにおれないようです
原理主義的な一神教徒の目から観ると、日本神道などは偶像崇拝の最たるものに映るのかもしれません。
神域から祭壇、儀礼に至るまで偶像で溢れているように見えます。
だが、これらは形あるものを通して形なきもの、限りあるものを通して無限なるものを思念するという、古来よりの"手振り"を伝えていることを理解しなければなりません。
私市先生はそれを"見立てること"と言い、これも私と同じ観方をされています。
見立てることは、先の転倒した偶像理解とは、むしろ真逆でこの手振りをしっかり身に付けることによって、そうした迷いから離れることが出来るでしょう。
見立てることに借りられる(これは"仮のもの"という思念が込められている)ものとは、偶像というより雛形、依り代です。それは見えないものの媒体であり、ものそれ自体でなく、ものを通してハタラクものに与るための知恵なのです。(これには偶像崇拝という蔑称はあっても、一般的な名称が無いというのはどういうことかi 主要な世界的な宗教が生まれる以前から存在した、古代宗教の象徴的儀礼の貴重な遺産がこの国にはまだ生きているのですi)
その形ある媒体は、一定の時期に廃棄、燃やされるー焚き上げーのが普通です。何十年も後生大事に盲信される心の偶像とは訳が違います。
神的なものは我々の思いを超えているのです。
この事が意識から離れた時、悪しき偶像崇拝がはびこります。
どこまでも形なきもの、無限なるものに精神は開いてゆかなければなりません。
その望みなき者に神的なものが臨みようがないではありませんか?...