人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

世の中という神

2018-12-09 11:28:01 | スピリチュアル?
所謂ノンデュアリティでは、ご存じのように「私という個人は居ない」、「すべてはストーリー、起こることが起きるだけ」というようなことが、宗教的ドグマのように語られます。
それが悪いことであるのを前提にして...そう言われていることでなしに、自分自身に照らしてみてどうなんでしょうか?
何か問題でも?...そんなに悪いことなんですか?
私は私であること、その私が何かの縁でしている、やらされている人生というストーリー...なるほどそういうことが起こっているだけかもしれませんが、悪いことばかりである訳がありません。
しかし、私はこの"ドグマ"が説かれ始めた背景に、その教師たちがあまり言及しないことで、そのように悪者のイメージを投影せずにおれないものが横溢している、ということは何となく感じています。
それは、例えば..."あなたはみんなが望んでいる役割をしっかり確立しなければいけませんi"、"他の人が見たらオカシク、ヘンな人に思われちゃいけませんよi、そうなるとね、仲間はずれにされて、この世に生きて行くことが出来なくなるんですよi"、"あなたの人生はみんなが望んでいる、オカシクないものでなければなりませんi"
というどっかから聞こえる、神サマのご託宣のような声が重ーくのしかかり、くびきになっているということではないでしょうか?
こういう他からもたらされる"自分という個人"も"あるべきストーリー"というものも本来無いものとは言えることでしょう。
しかし、少し考えてみればお分かりのように、これは私が私であること、その自分が自由に享受している人生自体に起因していることではないのです。
世の中の声が、神サマの声のように拭い去り難く、我々の精神を苛むことに起因しているのではないでしょうか?
この事はどっかの宗教団体に入ってみれば、比喩でなく、本当に神サマの"み言葉"が、"信じなければ救われない、生きていけない"もののように、刷り込まされることが感じられるでしょう。
み言葉にはあなたの個人的な考え、"感じ"を交え、付け加えることは許されません。他の教えも勿論です。そうすると異端のそしりを受けるのです。かつてはそれで火あぶりの刑です。
それは全く"私が私であること"を否定されることを意味しているのではないでしょうか?
自立すること(この場合この"私性"が生きること)が許されないのです。みんながそう言っていることに背けば生きていけない...
宗教組織というのは全くこの世の縮図みたいなところがあります。
なるほど、私の個人的な考え、感じというものは、ロクなものではありません。み言葉を歪め、汚してしまうこともあるでしょう。しかし、"私の神"からは、"そういうロクでもないことはご法度i"という申し立ては受けてません。
むしろ"お前は自由に考え、感じていい...それは私と共にあることで益々お前がお前であるようになるのだ...それはどこまでも自由でなければならない、決して私の通り道を他の道で塞いではならない"、という戒めならぬ戒めを受けているのです。
"あなたをいつも責め苛むものは、あなたの神なのかi、今こそあなたの神に尋ねてみられよi それは世の中というあだし神なのではないのか?"
あまりにも当たり前すぎて普段意識に上らないことですが、本来から人間は社会的なこと、集団に意識が向かわされているのです。人間とは個体であるばかりでなく、集団だということは先天的に刷り込まれていると言ってもいいでしょう。
今日までの人類は集団化、社会化しなければ生きてこれなかったというのも事実です。
その統合には、神(実際にそういう神的なものが関与したかもわかりませんが)の存在が大きな比重をもっていた、あるいは治世者が絶対権力をたてることに利用してきたという歴史もあったでしょう。
でも、この我々を内的でなしに、外的に統治、支配する在り方は独り歩きして、偏向してしまい、ついに我々をガンジガラメ状態にまで追い込んでしまったのが、今日の状況なのではないでしょうか?
今日重層的に、複雑に絡まりあったあらゆる問題の根底にあるのは、こうした人類的業ともいうべきものでしょう。
この神の暴君的支配は、我々の思いを超え、我々自らではもはや手に終えなくなってしまったようです。
他ならぬ、外からならぬ、内から顕われる私とあなたの"元なる神"こそが救世主となるでしょう。


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