小池辰雄先生には、その自由な福音理解、展開によるものか、直接その集会から離れた人であっても各々の在り方で、やはり自由な歩み方をされる人も少なくありません。
この人たちは、諸々の事情から小池先生と袂を分かつことになっても、ずっとその形に表れない学統?を受け継いでいるように見受けられることが特徴です。
そのお一人に京都の私市(きさいち)元宏という先生が居られます。
私は昔からお名前は存じておりましたが、具体的にどういう方かは最近その方の著書に接するまで分からなかったのです。
「知恵の御霊」(マルコーシュ.パブリケーション刊)という著書なのですが、その出版社のイメージから聖霊カリスマ運動とかの内容かと思いましたが、実に学識と霊性のバランスの良さが伺え、やはり小池先生の門下の方かなあ、と感じたことでした。
内容は私が最近感じていることと通うものがあるのですが、簡単に触れますと...
我々はともすると、一般通念を基にして旧約聖書を背景にしたユダヤ教は律法を重んじ、偏狭な国教という性格の強い宗教で、キリストの出現から愛と知恵に基づく普遍性に開かれた福音というものがもたらされたという、先入観を持ってしまいがちになりますが、実は外典を含めた旧約聖書に"知恵の御霊"とも言うべき霊統?(それは古代メソポタミアの宗教に遡るという)が息づいており、キリスト.イエスとして結実した、というものです。
これは古来よりの聖書的世界のことに留まらない、多くの事柄に通底している問題と思いますが、どの宗教にも外的な関わりとして律法とか、戒律など守らなければならないもの、イデオロギー、信条といった信じなければならないものがあります。これは宗教が集団として機能する場合には多少なりとも関わらざるを得ない問題でしょう。
だが、本当に一人一人が神的な生命に与り、交わり、目覚めてゆくことは内的に関わることであるのは言うまでもありません。
これは例えばユダヤ教は律法、キリスト教は福音の宗教などという短絡的な図式など全く無意味でしょう。
どの宗教にもこうした二つの側面があり、大体においてごっちゃに理解されているのが普通でしょう。
私市先生が福音に導かれるきっかけは、1950年代フィンランドのペンテコステ派の宣教師との出会ったことで、そこで聖霊体験に与ったそうです。
同派は原理主義的な性格が強いことで知られますが、その後小池先生と出会われ、その自由な福音理解に共感し、ご自身も独自に無教会的、幕屋的集会を持たれて今日に至っているとのことです。
私は一時、あの異言を伴う熱狂的な聖霊の事態というものに憧れを持ちつつも、警戒もしていました。
「ぺらぺら、ぽろぽろ」とやっているうちに魂がアーメン霊団?に乗っ取られて、原理主義に支配されてしまうのではないか、と。
私自身はその集団熱狂の中で、どうにかなったということは一度も無かったですが、ある集会で現臨に捉えられしまってからそういう疑念は薄らいだのです。
そして私市先生のことに触れて改めて感じました。聖霊の事態というものは、集団熱狂を伴うものがすべてでなく、多様な在り方があるものであり、信条、イデオロギーとは直接関わらないものであると。
霊のハタラキというのは、風が好むところに吹くように中立なものと言えます。
意識の有り様に応じたものが現れるのです。何にせよ意識の在り方が如何に大切なことでしょう。
そして一人一人内的にその生命を深く体受してゆくことが基幹であり、人と人とのつながりというものも、先の外的な関わりに偏したものでなく、内的関わりに根差した在り方もあるということです。
それはどこまでも先生が説いてやまない、知恵の御霊の導きによるものなのでしょう。
この人たちは、諸々の事情から小池先生と袂を分かつことになっても、ずっとその形に表れない学統?を受け継いでいるように見受けられることが特徴です。
そのお一人に京都の私市(きさいち)元宏という先生が居られます。
私は昔からお名前は存じておりましたが、具体的にどういう方かは最近その方の著書に接するまで分からなかったのです。
「知恵の御霊」(マルコーシュ.パブリケーション刊)という著書なのですが、その出版社のイメージから聖霊カリスマ運動とかの内容かと思いましたが、実に学識と霊性のバランスの良さが伺え、やはり小池先生の門下の方かなあ、と感じたことでした。
内容は私が最近感じていることと通うものがあるのですが、簡単に触れますと...
我々はともすると、一般通念を基にして旧約聖書を背景にしたユダヤ教は律法を重んじ、偏狭な国教という性格の強い宗教で、キリストの出現から愛と知恵に基づく普遍性に開かれた福音というものがもたらされたという、先入観を持ってしまいがちになりますが、実は外典を含めた旧約聖書に"知恵の御霊"とも言うべき霊統?(それは古代メソポタミアの宗教に遡るという)が息づいており、キリスト.イエスとして結実した、というものです。
これは古来よりの聖書的世界のことに留まらない、多くの事柄に通底している問題と思いますが、どの宗教にも外的な関わりとして律法とか、戒律など守らなければならないもの、イデオロギー、信条といった信じなければならないものがあります。これは宗教が集団として機能する場合には多少なりとも関わらざるを得ない問題でしょう。
だが、本当に一人一人が神的な生命に与り、交わり、目覚めてゆくことは内的に関わることであるのは言うまでもありません。
これは例えばユダヤ教は律法、キリスト教は福音の宗教などという短絡的な図式など全く無意味でしょう。
どの宗教にもこうした二つの側面があり、大体においてごっちゃに理解されているのが普通でしょう。
私市先生が福音に導かれるきっかけは、1950年代フィンランドのペンテコステ派の宣教師との出会ったことで、そこで聖霊体験に与ったそうです。
同派は原理主義的な性格が強いことで知られますが、その後小池先生と出会われ、その自由な福音理解に共感し、ご自身も独自に無教会的、幕屋的集会を持たれて今日に至っているとのことです。
私は一時、あの異言を伴う熱狂的な聖霊の事態というものに憧れを持ちつつも、警戒もしていました。
「ぺらぺら、ぽろぽろ」とやっているうちに魂がアーメン霊団?に乗っ取られて、原理主義に支配されてしまうのではないか、と。
私自身はその集団熱狂の中で、どうにかなったということは一度も無かったですが、ある集会で現臨に捉えられしまってからそういう疑念は薄らいだのです。
そして私市先生のことに触れて改めて感じました。聖霊の事態というものは、集団熱狂を伴うものがすべてでなく、多様な在り方があるものであり、信条、イデオロギーとは直接関わらないものであると。
霊のハタラキというのは、風が好むところに吹くように中立なものと言えます。
意識の有り様に応じたものが現れるのです。何にせよ意識の在り方が如何に大切なことでしょう。
そして一人一人内的にその生命を深く体受してゆくことが基幹であり、人と人とのつながりというものも、先の外的な関わりに偏したものでなく、内的関わりに根差した在り方もあるということです。
それはどこまでも先生が説いてやまない、知恵の御霊の導きによるものなのでしょう。