人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

騙されてもいいi

2018-12-22 11:47:42 | 求道、探究
「たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」(親鸞)

今は人間もドライになったようで、この親鸞の先師、法然への絶対的信頼を吐露していると思われる親鸞の言葉もピンと来なくなってきているようですが、昔私が関わったことのある宗教団体でも、"OO先生に従って地獄に堕ちても構いませんi"という、熱心そうな信者の言葉を聞いたことがあります。
私は?...OO先生は今でも尊敬しているし、その縁に触れたことも感謝してますが...特別信者だったってことも無かったし、一筋にその教えに挺身してきた訳でも無かったし...何で地獄まで付き合わされにゃあならんのか...イヤなこったi(このバチ当りめがあ~i)
師弟愛というのは勿論悪くないですよ。でも何でもかんでも師に倣え、お追従なんてのはゴメンですね。
宗教の世界ではもうこういうの多いんです。外人の師がイスラム教なので、「今日からもう豚肉食べませんi」なんてそれに肖りにわかにその信者になる...急にインド風のサリーを身にまといだした...師が勧める本は読み、あまり評価してない本は読まない...主体性がなく、一体、誰がそこに生きているのか分かりゃしません。
良き信者とは猿真似上手なことなんでしょうかi
親鸞は勿論そんな皮相なことを言いたかった訳では無いでしょうが、この言葉は聞きようによっては盲信、盲従しているように感じます。
しかし、親鸞の生き方は法然にベッタリ従ってなどいなかったのですi
念仏という捉え方でも法然にはどこか、何万遍称えるとか、修行的な側面が伺われるが、親鸞にあっては本願的なものに重きが置かれ、形としての行には囚われていませんでした。
そして親鸞には、妻帯したことなど法然には見られない、徹底した還俗の姿勢がありました。
それらは、ある意味では先師への反抗、破戒ともとれるものでしょう。
でも、それはごくごく当たり前の人それぞれの道、生き方の表れだったとのでしょう。
法然、親鸞ともその置かれた生の有り様で仏道を示したのです。
お追従ばかりの、長いものに巻かれるばかりの信者には、このそれぞれの道というのが見えてこないのです。
では、何故親鸞はその先師への絶対信とも言うべき言葉を表明したのでしょうか?
私には師、法然の向こうにあるものがヒシヒシと感じられます。
親鸞は法然との縁によって、阿弥陀仏ー永遠の命、無量、無辺の光に合わされたのです。
この奇縁への絶対信だったのでしょう。
そう、このものに与れるのなら、地獄に堕ちても後悔などありませんi 絶対信i
私が生まれるのも、死ぬるのもすべてこのものに握られているのです。
私の場合は、特別な師を通じてのものではなかったですが、たとえそれがサタンのたぶらかしでも構わないです。騙されてもいいi、これがウソなら、すべての真実は虚しいi
この見えざる出会い無くして、宗教的師との縁も信頼も無いでしょう。
師に盲従し、肖ろうとするのは、全くこの第一義からはズレているのです。
私が一心決定するのは、どこまでも"皆が、周りが信じている"神、師ではなく、私自身の神、師なのです。





コメント
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