私が好んで使っている現臨という言葉は、キリスト教神秘主義などで使われているもので、聖霊が臨んだり、内住することで感得されるようなことを言っているのです。
この聖霊というもの自体もそうですが、その他恩寵、上よりの力...これらも多くキリスト教で親しまれている言葉を借りているのです。
それで「あなたはクリスチャンなのでしょう?」と訊かれることもあったのですが...私はキ教特有の信仰の押し付け、ドグマの金科玉条を固守したり、あの高徳そうに取り澄ましたような態度などは虫ずが走るほど嫌いなのです。
クリスチャンになど絶対なりたくはありませんi
しかし...私はこの言葉に言い表せない、スピリチュアルそのものとも言ってもいい、リアルな生命の事態のことを、多くキリスト教的な思潮(それは決して主流のそれでは無かったですが)を通じて学ばされ、養ってきたのは確かなことです。
何故か?...理屈を超えて惹かれるものがあるから、と言ったらそれまでですが、それはより直接的なものを示唆しているからとも思います。
例えば、"恩寵に与るにはどうしたらいいのか?"と言った場合、私が育った精神世界ではそれが主流だったですが、インド教や仏教などに伝えられていたような瞑想修行に則る、ということが方法論として示されるのです。
私は極度のメンドクサがりでもあり、その気根も持ち合わせていないせいか、その手引き書を読む気持ちすら起きてきませんでした。
では、そうした修行系のみならず、精神世界そのものを敵視していたキ教の主流はというと、前記したように"みことばに従いなさい"だの、"十字架を仰ぎ見なさい"だの、信仰することを条件に付しているようなのです。だから単純に私はクリスチャン寄りの人間とは言えないのです。
単純に言えることは、全く単純に直接的に"あの息吹"が伝わるものに惹かれるということです。
私はいつの間にか、"あの感じ"が芽生え、年々深まり行くのを覚えています。それは何でか?
修行に勤しんだことも、"かく信じた"からでもありません。何もしてない?
いや、一つ...祈りというものはあります。それはしかし、形としてのそういう行があるというものでなく、意識が神的なものに向く、向けられる敬虔な心持ちといったもののことです。
それと、思い付くことと言えば、ごく限られたものですが、手島先生とか小池先生、ベルジャーエフなどそういう霊の息吹きが織り込まれた書物を読んでいたということはあります。そう、読んだだけです。
これらは先の単純に"あの息吹"を伝えているのが特徴なのですが、それだけで意識がもうやたらと高陽したことは何度もあります。(聖書のみことばというものでも、そういうものに触れることに意義があるのでしょうが、体系的な教義になったり、押し付けがましい決め事になってしまったら忽ち蒸発してしまうでしょう)
こういうことは、人によって何に共感するかは異なるでしょうが、誰しもが経験があるのではないでしょうか?
これは私がしばしば言っている"意識が向いたら、もうそこに現臨が..."という、摩訶不思議な事態のことを自分の実体験を交えて伝えているのです。
書物というのは一つの媒体ですが、それは何気の無い人との会話であったり、動物との触れあいであったり、契機となるものはアチコチにあります。その奇縁というのも人それぞれでしょう。
とにかく意識が向くこと、向けられること、現臨に包まれることが主眼なのであり、修行して、信仰して得られるであろう、何ものかに囚われていたら中々気が付かないでしょう。
捉えようとするのでなく、捉えられて分かる...それは全くこちらの思いを超えたところで進行するもので、気が付いたら思いがけないことになっていた、というようなことです。
この聖霊というもの自体もそうですが、その他恩寵、上よりの力...これらも多くキリスト教で親しまれている言葉を借りているのです。
それで「あなたはクリスチャンなのでしょう?」と訊かれることもあったのですが...私はキ教特有の信仰の押し付け、ドグマの金科玉条を固守したり、あの高徳そうに取り澄ましたような態度などは虫ずが走るほど嫌いなのです。
クリスチャンになど絶対なりたくはありませんi
しかし...私はこの言葉に言い表せない、スピリチュアルそのものとも言ってもいい、リアルな生命の事態のことを、多くキリスト教的な思潮(それは決して主流のそれでは無かったですが)を通じて学ばされ、養ってきたのは確かなことです。
何故か?...理屈を超えて惹かれるものがあるから、と言ったらそれまでですが、それはより直接的なものを示唆しているからとも思います。
例えば、"恩寵に与るにはどうしたらいいのか?"と言った場合、私が育った精神世界ではそれが主流だったですが、インド教や仏教などに伝えられていたような瞑想修行に則る、ということが方法論として示されるのです。
私は極度のメンドクサがりでもあり、その気根も持ち合わせていないせいか、その手引き書を読む気持ちすら起きてきませんでした。
では、そうした修行系のみならず、精神世界そのものを敵視していたキ教の主流はというと、前記したように"みことばに従いなさい"だの、"十字架を仰ぎ見なさい"だの、信仰することを条件に付しているようなのです。だから単純に私はクリスチャン寄りの人間とは言えないのです。
単純に言えることは、全く単純に直接的に"あの息吹"が伝わるものに惹かれるということです。
私はいつの間にか、"あの感じ"が芽生え、年々深まり行くのを覚えています。それは何でか?
修行に勤しんだことも、"かく信じた"からでもありません。何もしてない?
いや、一つ...祈りというものはあります。それはしかし、形としてのそういう行があるというものでなく、意識が神的なものに向く、向けられる敬虔な心持ちといったもののことです。
それと、思い付くことと言えば、ごく限られたものですが、手島先生とか小池先生、ベルジャーエフなどそういう霊の息吹きが織り込まれた書物を読んでいたということはあります。そう、読んだだけです。
これらは先の単純に"あの息吹"を伝えているのが特徴なのですが、それだけで意識がもうやたらと高陽したことは何度もあります。(聖書のみことばというものでも、そういうものに触れることに意義があるのでしょうが、体系的な教義になったり、押し付けがましい決め事になってしまったら忽ち蒸発してしまうでしょう)
こういうことは、人によって何に共感するかは異なるでしょうが、誰しもが経験があるのではないでしょうか?
これは私がしばしば言っている"意識が向いたら、もうそこに現臨が..."という、摩訶不思議な事態のことを自分の実体験を交えて伝えているのです。
書物というのは一つの媒体ですが、それは何気の無い人との会話であったり、動物との触れあいであったり、契機となるものはアチコチにあります。その奇縁というのも人それぞれでしょう。
とにかく意識が向くこと、向けられること、現臨に包まれることが主眼なのであり、修行して、信仰して得られるであろう、何ものかに囚われていたら中々気が付かないでしょう。
捉えようとするのでなく、捉えられて分かる...それは全くこちらの思いを超えたところで進行するもので、気が付いたら思いがけないことになっていた、というようなことです。