私がスピ的なことについて書いていることは、もうほとんどが神的なこと、現臨に関わることばかりなのです。
単純に"神"と言っても良さそうなものですが、どうもそれだと読者にある種のトラワレを持たせかねない気がするのです。
宗教、スピ界隈では如何に神という言葉がトラワレの要因となってきたことでしょう。
もう、私は本当にホントーにこれ以上トラワレの種を巻き散らすマネはしたくないのですi
だから...これが私が信じている教えとか私が行じている修行方法とかいうのは、ここには出てこないのですi
全くもって、神についてトラワレるほどナンセンスなことはありませんi
と言うと"トラワレたらいけませんi"と、又トラワレたり、"思いを出してはいけませんi 悔い改めなければなりませんi"と出来そうにないことにトラワレたり...
ここでエラそうに、教えらしきものを垂れるとすれば...もし、あなたが神を求めているのなら、神そのものを求めたらいいと思います。
神への"信仰"、神についての"教え"、神に至るという"修行"、"行い"...こういうものが神そのものから分離して、一人歩きして、別なるものへと変質することにもなるのです。
この不自由なトラワレの事態とは、神そのものからの分離、言い換えると、神ならざる思念に取り巻かれるところから来るのです。
このことは一度、神に捉えられてみれば、自ずと分かります。
神は思念で捉えようとするのでなく、捉えられるものなのです。神はいくら考えても分かりません、思いを超えているものだから...
それについて、何一つ決めつけた見解など付されようはずがありません。
神は分からない、捉えられない、決められない、というのが逆説的見解でしょう。
それでも人間は分かろうと、捉えようと、決めつけようとするんですね。全く悲しいサガです。
求めようとする...だったら神そのものを求めたらいい...それは何をどうしていいか分からないことかもしれませんが...
こういうことは、考えているあなたからは出てこないのではありませんか?
分からない、捉えられないものだけど、親にすがろうとする赤子のように、"み霊の親"を求めることは、人間の本性として与えられているのではないでしょうか?
これは修行なんてものじゃないですが、私は神を求める方法らしきことで、"祈ること"ということは言っているのです。
実際に私はそう導かれてきたことなのです。
一つ、祈りというと、意識で神を対象として、向こうにおいてしまいがちになるものですが、通常の感情とも違うもので、自ずと内から湧き出てくるものというものも感じられてくるでしょう。このことを意識してみると、祈りがもっと深まってきます。
生まれ赤子のように神そのものを慕い求め、祈る...あまり自分の念を交えないことが肝要なことですが、そうすると、神の方があなたに手を伸ばしてくる、かもしれない...。
そして、神に捉えられてみて分かるのです。如何に自分が諸々の思念にトラワレてきたことが...
神にトラワレるほどナンセンスなことは無いということが...
神は内にも外にも満ちていることが...
そのことが、トラワレからの解放につながるということが...如何に自由なことかということが...
そして、あなたが本当に求めていたものは、教えや行法などでなく、神そのものだったということが...。
単純に"神"と言っても良さそうなものですが、どうもそれだと読者にある種のトラワレを持たせかねない気がするのです。
宗教、スピ界隈では如何に神という言葉がトラワレの要因となってきたことでしょう。
もう、私は本当にホントーにこれ以上トラワレの種を巻き散らすマネはしたくないのですi
だから...これが私が信じている教えとか私が行じている修行方法とかいうのは、ここには出てこないのですi
全くもって、神についてトラワレるほどナンセンスなことはありませんi
と言うと"トラワレたらいけませんi"と、又トラワレたり、"思いを出してはいけませんi 悔い改めなければなりませんi"と出来そうにないことにトラワレたり...
ここでエラそうに、教えらしきものを垂れるとすれば...もし、あなたが神を求めているのなら、神そのものを求めたらいいと思います。
神への"信仰"、神についての"教え"、神に至るという"修行"、"行い"...こういうものが神そのものから分離して、一人歩きして、別なるものへと変質することにもなるのです。
この不自由なトラワレの事態とは、神そのものからの分離、言い換えると、神ならざる思念に取り巻かれるところから来るのです。
このことは一度、神に捉えられてみれば、自ずと分かります。
神は思念で捉えようとするのでなく、捉えられるものなのです。神はいくら考えても分かりません、思いを超えているものだから...
それについて、何一つ決めつけた見解など付されようはずがありません。
神は分からない、捉えられない、決められない、というのが逆説的見解でしょう。
それでも人間は分かろうと、捉えようと、決めつけようとするんですね。全く悲しいサガです。
求めようとする...だったら神そのものを求めたらいい...それは何をどうしていいか分からないことかもしれませんが...
こういうことは、考えているあなたからは出てこないのではありませんか?
分からない、捉えられないものだけど、親にすがろうとする赤子のように、"み霊の親"を求めることは、人間の本性として与えられているのではないでしょうか?
これは修行なんてものじゃないですが、私は神を求める方法らしきことで、"祈ること"ということは言っているのです。
実際に私はそう導かれてきたことなのです。
一つ、祈りというと、意識で神を対象として、向こうにおいてしまいがちになるものですが、通常の感情とも違うもので、自ずと内から湧き出てくるものというものも感じられてくるでしょう。このことを意識してみると、祈りがもっと深まってきます。
生まれ赤子のように神そのものを慕い求め、祈る...あまり自分の念を交えないことが肝要なことですが、そうすると、神の方があなたに手を伸ばしてくる、かもしれない...。
そして、神に捉えられてみて分かるのです。如何に自分が諸々の思念にトラワレてきたことが...
神にトラワレるほどナンセンスなことは無いということが...
神は内にも外にも満ちていることが...
そのことが、トラワレからの解放につながるということが...如何に自由なことかということが...
そして、あなたが本当に求めていたものは、教えや行法などでなく、神そのものだったということが...。