人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

意識と内的感覚

2019-12-16 11:56:03 | 意識、照明
私に初めて現臨と呼んでいるものが感覚されたのは、40年ほど前のことでしたが、その感じ方には、その時々に応じて微妙な変化もありました。
まず、最初の頃は決まって手の辺りに、これはかなり具体的な感覚なのですが、ある種の暖かみを感じていたものです。
それも単なる肉体的なものとも違うもので、それが全身に広がってゆくにつれて、私が内的感覚と言っている心身一如的なもの、ということが分かってくるのでした。
しばらくすると、何か耳下線の辺りが膨らんでくる感じを覚え初めました。これがあると大抵、意識の高揚感を伴うのです。
出口王仁三郎師によれば、それは神憑りの兆候なのだそうですが、そのことについて、"どんな神が懸かっているのだろう?"とか考えようとすると、孫悟空の頭にはめている輪っかが締め付けられるように、偏頭痛が起こり、困難になります。まあ、"考えるなi"という、見えない合図なのでしょう。
この頃から、私は精神世界には付き物の、前世や異次元とか、考えても分からないことを夢想することから、自然に離れるようになりました。
頭がズキンズキンするから?...いや、それもありますが、そんな夢想よりもっと素晴らしい、リアルな世界があることを示されていたからです。
こうして私は"見えざる導き"というものを知らされるようになったのです。が...
その感覚は一年半ぐらい経った昭和55年夏頃、自然消滅してしまいました。
これは先月のあの僅かな"消失感"何てどころじゃなくて、本当に"すっからかん"になってしまったのです。(もっとも、こうしたことは"そう思っているだけ"だったかもしれませんが)
この冬眠期間は長く、約7年間続きました。その間にあの著しい"目覚め"の体験があったにも関わらず、です。
再び、その内的感覚を取り戻すことになったのは、スブドのラティハンとの出会いに由るものです。
ホントは感謝しなければならないと思うのですが、なんだ、かんだあって、そこから離れることがあっても、実質それが完全消滅することはありません。今のところ。
しかし、スブドとの関わりで、どうも私は長いこと、ある種の"バイブレーションを受けること"に意識が偏ってしまった面も無いではありません。
バイブレーション、神的なハタラキのことで、これを欠いては何も開かれない、と言ってもいいほどのものには違いないのですが、又そこに何かを欠いたら、尚十全とは言えないものがあるように思われます。
端的に言えば、波動であるとか、ハタラキ的なものは神的なものと切り離してもハタラくものです。それは神的ならざるものにもなり得るものでしょう。
ということは、ハタラキ自体が神的なものとは限らないのです。
"神はハタラキである"とか、神を特定の属性で言い表すことは不可能でしょう。愛、平安...要するに"神はすべてのもの"と言ってもいいくらいでしょう。
私のごく浅い経験に過ぎないですが、ラティハンのような自動運動で、ただ"バイブレーションに心身をゆだねる"ことだけからは、中々自ずと意識がある中心に集められる感じにならず、意識の内奥に浸透するようにはならなかったのです。
この内的感覚がもっと恒常的に、日常に定着するようになったのはもっと後のことで、バイブレーションを受けることや自動運動が起こることよりも、神と共にあることに意識が向けられるようになってからです。
これには、この備忘録のようなブログを書いていることの意義も大きいものがあるのです。
何にしても、人の人生は"意識の在り方"次第と言えるでしょうが、年を重ねてゆくうちに自然と変わるようにも感じます。
そして、そのように変わる面もあれば、変わらない面もあることも実感されてきます。
神的なものと共にあることは、常にどっかで意識付けられているのでしょう。
こう思えるのは、多分私は確実に年をとってしまった、ということなのでしょうか?
コメント
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