私が近年流行した所謂ノンデュリアリティに疑念を持ったのは、"私は居ない"というのもそうなのですが、彼らが執拗に過去も未来も無く、"今しかない"と紋切り型に主張する点でした。
"そうかなあ?"とそこで考えてしまうのですが、分かった気にはなっても、分かりゃしません。
成る程過ぎたことをいつまでも、くよくよと悔やんだり、来ない先のことを案じてしまえば、今現在のことが疎かになってしまうでしょう。
しかし、今、現在しかないと決めつけてしまうことは、過去、現在、未来と分断された時間として、そう捉えてしまうことにならないでしょうか?
そして、"今しかない、今しかない"と懸命に信仰題目のように思おうとしたりします。
私は、そんな思いがもたげていた、ちょうど5年前、過去のことが強烈に想起されるということがありました。
過去は過ぎた昔のことでなくて、全く今も生きていると実感されたのでした。
それは40年くらい前初めて現臨、神的なものを身に覚えた時のことなのですが、その想起されたものが呼び覚ましたのか、その5年前の"現在"、それが臨んだことでそうなったのかは分かりませんが、過去と現在がつながったようになったのでした。
すると...今現在しかないようにも感じられて来たりはします。
先のノンデュアリティの言わんとすることも、おそらくこういうことだと思われますが...神的なもののハタラキなしにそういうことは起きないでしょう。
そうでなければ、そう考えようとしたり、信じようとしてしまうでしょう。
で、生きている過去も未来も分断されて"今しかなくなる"?
その今を思念で捉えようとした途端、今じゃなくなるだけでしょう。
私がそれまで漠然と感じてはいたものの、この"神的なものと共にあること"を強く意識するようになったのは、実にこのことを通してだったのです。
原点というか、原初的なものとはそういうものだと実感させられたのです。
そうあってか...私はその時久しぶりに現臨に捉えられてしまったのでした。これは一種の私的リバイバル(信仰復興)みたいなものです。
過去というものが無ければ、そういうことは起こり得ないのです。
宗教で伝えられる神とは、生きている過去のようなものと言ってもいいでしょう。
聖書でも仏典でも、そこに神的なものと交渉のあった過去のことが言い伝えられ、書かれています。
その眼目は、生き通しの命に触れ、思い起こせ、ということにあるのでしょう。
これは覚醒ということにもつながり、過去の思起というものがその契機となり得るのです。
否、その命にあって思起させられるということでしょう。
近代から現代にかけて過去は過ぎ去ったもの、葬りさるべきものとされ、人類の歴史は未来に向かって進歩して行くという、短絡的な楽観主義がとなえられる風潮は、神を否定する意識と無関係ではないでしょう。
しかし、そこに未来は開かれない...神は生き通しの命なのだから...。
"そうかなあ?"とそこで考えてしまうのですが、分かった気にはなっても、分かりゃしません。
成る程過ぎたことをいつまでも、くよくよと悔やんだり、来ない先のことを案じてしまえば、今現在のことが疎かになってしまうでしょう。
しかし、今、現在しかないと決めつけてしまうことは、過去、現在、未来と分断された時間として、そう捉えてしまうことにならないでしょうか?
そして、"今しかない、今しかない"と懸命に信仰題目のように思おうとしたりします。
私は、そんな思いがもたげていた、ちょうど5年前、過去のことが強烈に想起されるということがありました。
過去は過ぎた昔のことでなくて、全く今も生きていると実感されたのでした。
それは40年くらい前初めて現臨、神的なものを身に覚えた時のことなのですが、その想起されたものが呼び覚ましたのか、その5年前の"現在"、それが臨んだことでそうなったのかは分かりませんが、過去と現在がつながったようになったのでした。
すると...今現在しかないようにも感じられて来たりはします。
先のノンデュアリティの言わんとすることも、おそらくこういうことだと思われますが...神的なもののハタラキなしにそういうことは起きないでしょう。
そうでなければ、そう考えようとしたり、信じようとしてしまうでしょう。
で、生きている過去も未来も分断されて"今しかなくなる"?
その今を思念で捉えようとした途端、今じゃなくなるだけでしょう。
私がそれまで漠然と感じてはいたものの、この"神的なものと共にあること"を強く意識するようになったのは、実にこのことを通してだったのです。
原点というか、原初的なものとはそういうものだと実感させられたのです。
そうあってか...私はその時久しぶりに現臨に捉えられてしまったのでした。これは一種の私的リバイバル(信仰復興)みたいなものです。
過去というものが無ければ、そういうことは起こり得ないのです。
宗教で伝えられる神とは、生きている過去のようなものと言ってもいいでしょう。
聖書でも仏典でも、そこに神的なものと交渉のあった過去のことが言い伝えられ、書かれています。
その眼目は、生き通しの命に触れ、思い起こせ、ということにあるのでしょう。
これは覚醒ということにもつながり、過去の思起というものがその契機となり得るのです。
否、その命にあって思起させられるということでしょう。
近代から現代にかけて過去は過ぎ去ったもの、葬りさるべきものとされ、人類の歴史は未来に向かって進歩して行くという、短絡的な楽観主義がとなえられる風潮は、神を否定する意識と無関係ではないでしょう。
しかし、そこに未来は開かれない...神は生き通しの命なのだから...。