人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

形あるものから形なきものへ

2019-12-12 11:53:39 | 祈りと瞑想
四十年ほど前、私は当時神とつながるにはある方法に依らなければならないものと思っていて、それが多種あってどれに依ったらいいのか迷っていたのですが、ある日何かの本を読んだことからだったか、突如意識が高揚し、歓喜が込み上げてきて、そういうことはどうでもよく思えてきたことがありました。
実に神的なものに触れるという端緒というのは、ここにあると言ってもいいのですが、まだ意識的になっておらず、そういう自覚はなかったものの、どうもこういうことから特定の方法に則るという方には向かわなかったようなのです。
神とつながるには、何かのやり方を身に付けるというよりも、"触れる"、"親しむ"ということが肝心なのではありませんか? ま、やり方を通してそうなるということもあるので無闇に方法を否定しませんが...
いや、実を言うと私は...いつも書いていることと違うみたいですが、方法らしきものにコンスタントに従っていたとも言えるのです。
具体的に言うと、それは主としてスブドという団体に伝わる「ラティハン」と呼ばれる修練と、瞑想指導者の金井系一郎先生が始められた「元波動瞑想」という"メソッドi"(先生自身はそう呼んでいる)です。
これらはしかし、厳密に修行方法、メソッドなどとして捉えられるものかどうかは疑問です。
やり方らしきもの?...極端なことを言えば、前者は"立っているだけ"、後者は"座っているだけ"とも言えるのです。
少なくとも、私は特別やり方らしきものを(最初はどうしてもこっちから訊きましたが)教わったことも、身に付けたことも無いですがねえ...
これらは身に付けるものじゃなくて、自ずと身に付いちゃうものなのです。
実習のスタートの形こそ違えど、どちらもその主眼となるものは、技法の修得にあるのではなく、波動、バイブレーション(呼び名は色々ある)みたいなものを受けるところにあるのです。
そっからじゃないと何も"開かれません"i
"ただ受けること"と言ったら、こうして書いている最中にも..."じんじん"、"プルプルプルっ"と...ありゃま、中断i
ええっと...そうそう、こういうことには形が無いのです。
これが意識がパッと向くと、パッとなるという消息を伝えているのですが、その実習の間だけ受けているというものではないのです。
これらの実習者なら分かるでしょうが、ラティハンや瞑想を誘起させるような意識状態というものをごく日常的に経験していることでしょう。
これは多分、私がしばしば"現臨が臨む"と言っていることと通じるものと思われる(ちなみに"現臨に捉えられる"と言っているものは、もっと意識に深く浸透して、思考マインドが落ちて日常生活が困難になるようなことです)のですが、意識的になることで、形を超えて、日常のどこでもそういうものが開かれるということなのです。
これが私がこうした修練に対して、あまり特別な方法というものを意識させない大きな理由だと思われます。
実際に受けて、身をその思いを超えたものに、無為的に身を任せ(そういうものにあって、任せられるということがあるのですi)れば、特別なやり方も名称も形も無くなることが実感されます。
そこに自己とその方法の二つは無くなり、一如的なものとなります。
これは、元々自己に備わっていたものが、その波動というか、神的なハタラキによって発現することを物語っているのでしょう。
如何なる修行方法でも初めは形に則ったものでも、どこかでそれを超えたものに開かれるものではないでしょうか?
これは何より意識がそのように、形あるもの、相対的なものに固執することなく、開かれていることが肝心なことでしょう。
コメント
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