先日、あるキリスト教系の集会で、ある人が私に「あなたはイエスが十字架にかかって、私たちを救いたもうた、という事実をどう受け止めているのですかi」という、ニュアンスのことを突き付けてきました。
知るかってんですよi
私が場違いなところに来てしまったのかもしれませんが、クリスチャンでもない私が何でそんなことに答えなければならないでしょうか?
この人は多分私のそういうスタンスも知っていたかと思います。
彼から私は「自分の信仰などあてになりません」と、小池先生みたいなことを何度も聞かされているのです。なのに"何で自分の信仰をあてにするようなことを言ってくるかなあ"、と感じた次第なのです。
そして、彼はその"十字架信仰"について、「こんな客観的事実を何で信じようとしないのですかi」とまで言及したのです。
んもう...こんなことが客観的事実たり得る訳ないじゃないですかi んなこた、"客観的に考えれば"分かることでしょうに...
キリスト教以外の他宗教の人は信じてません。問題にならないです。
ま、彼は自分の信仰を力説するあまり、はずみでそう言ったのでしょうけど...
"自分の信念、心情、思い描かれた世界に取り込まれた信仰...
信じるものと信じないもの、正しいものと誤れるもの、救われるものと救われないものとを分かつ信仰...
常に抽象的な議論、"お話合い"に終始して、少しも言葉を超えた内実に至らない、それが伝わってこない信仰...
自分の狭い観念世界に閉じ込められ、絶えず何ものかから脅迫観念をもたらされ続けるような信仰...
お追従者、思考停止病者ばかりを作り出す信仰...
こんなものは、もう本当に、ホントーに沢山だi"
私は必ずしも、例えばこのイエスが十字架にかかられたことを通して、それがどういうことを指し示しているのか、内実を持っているのか、ということを否定している訳ではありません。
私は、先の場でこのことについて触れようとも思いましたが、どうも、ああでもない、こうでもない"信仰論議"(これには私も加担しました)に取り巻かれたようで、そういう気が起きてきませんでした。
これは私の"主観"では、神仏、人の思いを超えたものへの"全託"ということの中に示されているように感じています。
自分の信念、観念、信仰...要するに思いというものは、それを超えたものに明け渡される、ということです。
表層的信仰は根っこの方で、神的なものに裏打ちされるのであり、自分の信仰に取って代わってしまったならば、生きたものにはならないでしょう。
このことはおそらく、古今東西のあらゆる宗教世界に通底していることかと思われます。十字架云々という表現は、別のそれで言い表されるのでしょう。
ここに"普遍的事実"というものに与れるかもしれません。
普遍的事実は普遍的なものとのつながりにおいて開かれてくるものでしょう。
これは客観的事実とは丸っきり違います。
客観的に証明されたものが、普遍的事実になってしまうならば、神仏は見えるモノと同様に理解され、これほどの真理の蹂躙は無いと言えるでしょう...。
こういう風に書いてゆくと、どうしても私は熱くなってしまうところがあります。
このこと自体が"熱狂的信仰"に映る向きもおられるかもしれません。
どう思われようが自由ですが、私はどこまでも自分の信仰なんぞは十字架にかからんことを望むばかりです。
知るかってんですよi
私が場違いなところに来てしまったのかもしれませんが、クリスチャンでもない私が何でそんなことに答えなければならないでしょうか?
この人は多分私のそういうスタンスも知っていたかと思います。
彼から私は「自分の信仰などあてになりません」と、小池先生みたいなことを何度も聞かされているのです。なのに"何で自分の信仰をあてにするようなことを言ってくるかなあ"、と感じた次第なのです。
そして、彼はその"十字架信仰"について、「こんな客観的事実を何で信じようとしないのですかi」とまで言及したのです。
んもう...こんなことが客観的事実たり得る訳ないじゃないですかi んなこた、"客観的に考えれば"分かることでしょうに...
キリスト教以外の他宗教の人は信じてません。問題にならないです。
ま、彼は自分の信仰を力説するあまり、はずみでそう言ったのでしょうけど...
"自分の信念、心情、思い描かれた世界に取り込まれた信仰...
信じるものと信じないもの、正しいものと誤れるもの、救われるものと救われないものとを分かつ信仰...
常に抽象的な議論、"お話合い"に終始して、少しも言葉を超えた内実に至らない、それが伝わってこない信仰...
自分の狭い観念世界に閉じ込められ、絶えず何ものかから脅迫観念をもたらされ続けるような信仰...
お追従者、思考停止病者ばかりを作り出す信仰...
こんなものは、もう本当に、ホントーに沢山だi"
私は必ずしも、例えばこのイエスが十字架にかかられたことを通して、それがどういうことを指し示しているのか、内実を持っているのか、ということを否定している訳ではありません。
私は、先の場でこのことについて触れようとも思いましたが、どうも、ああでもない、こうでもない"信仰論議"(これには私も加担しました)に取り巻かれたようで、そういう気が起きてきませんでした。
これは私の"主観"では、神仏、人の思いを超えたものへの"全託"ということの中に示されているように感じています。
自分の信念、観念、信仰...要するに思いというものは、それを超えたものに明け渡される、ということです。
表層的信仰は根っこの方で、神的なものに裏打ちされるのであり、自分の信仰に取って代わってしまったならば、生きたものにはならないでしょう。
このことはおそらく、古今東西のあらゆる宗教世界に通底していることかと思われます。十字架云々という表現は、別のそれで言い表されるのでしょう。
ここに"普遍的事実"というものに与れるかもしれません。
普遍的事実は普遍的なものとのつながりにおいて開かれてくるものでしょう。
これは客観的事実とは丸っきり違います。
客観的に証明されたものが、普遍的事実になってしまうならば、神仏は見えるモノと同様に理解され、これほどの真理の蹂躙は無いと言えるでしょう...。
こういう風に書いてゆくと、どうしても私は熱くなってしまうところがあります。
このこと自体が"熱狂的信仰"に映る向きもおられるかもしれません。
どう思われようが自由ですが、私はどこまでも自分の信仰なんぞは十字架にかからんことを望むばかりです。