おそらくこのブログで、随所にその辺りのことが伺われるでしょうが、私には、近年欧米を中心に広まった、所謂ノンデュアリティには、同調出来るところと、出来ないところがあるのです。
およそ5年前、ブログを始めた頃は、ノンデュアリティにハマりかけていて、その少し前英国のその分野の騎手?の一人、ルパート.スパイラの著書「プレゼンス」(ナチュラルスピリット刊)を読んだのですが、正直あまり印象に残っていなかったのです。
しかし、最近読み返してみると...「私たちの真の自己は、気づいている現存(プレゼンス)です」
「自己が自己自身を知る光は、自己自身の光である...それは他の何ものでもなく、それ自身によって知られています」
「(現存にあって)幸福は自己の自然な状態であり、いかなる状況においてもそこにあります。...平安、幸福、愛は、私たちの自己に本来備わっているものです」
何だか誰かさんが言ってそうなことが、ふんだんに出てくるではありませんか?
ここで現存と表現されているものは、(多分)私が現臨と呼んでいるものと同じニュアンスのもののように思われます。
私の場合、"臨んでくるもの"という感じを出しているのです。
私はパクった覚えはありませんよ(笑)...何しろあまり印象に残ってないので...(私は主にラマナ.マハルシ、フランスの神秘思想家モーリス.ズンデルからパクっ...いやインスパイアを受けているのです)
しかし、スパイラ氏は、当世の非二元のティーチャーらしく、神(的なもの)、といった表現は使いません。(使おうとしない?)
私は、自己と神的なものは切り離せないものと感じていますが、彼は現存は、"自己そのもの"という風に強調しているようです。
そして、体、心にとらわれた自己、思われた自己は、見せかけ、幻想に過ぎない、といった、やはり当世流の言い回しも随所に見られますが、概して私には、彼から非二元原理主義者という印象はあまり感じられませんでした。
しかし、その思われた世界に"投げ出されて"生きている大方の人間は、どのようにしてその真の自己、現存に気づくことが出来るでしょうか?
そこでも彼は"直接的な道"の教師らしく、特定の修行法を提示しません。
ただ、"思われた、分離した自己には真実性がないことに気づいていけば、真実は自ずと立ち上がってくる"...らしいのですが、私のように偽我(?)がこびりついているような人間には、ちと難しいようです。
そこで、そういう人間には..."あったi"
"すべてを現存にゆだねる"ということにも、彼は終わりの方で触れているのです。私にはそれがもっとも肝心なことのように思えるのですが、"ゆだねる"ということには、(二元性という言葉を使いたくなければ)自己を超えた"他者性"というものが示されなければならないのではないでしょうか?
神的なものというのは、そういうニュアンスのものです。
もっとも、それは各々の機根、縁にもよるもので、自己探求的な道で現存に目覚められればそれでいいのでしょう。
なお、この本には続刊があり、そちらはまだ読んでおらず、ちゃんとした書評にならなかったのは(毎度のことながら)"悪しからず"、です。廃刊にならないうちに読んでみたいです。
およそ5年前、ブログを始めた頃は、ノンデュアリティにハマりかけていて、その少し前英国のその分野の騎手?の一人、ルパート.スパイラの著書「プレゼンス」(ナチュラルスピリット刊)を読んだのですが、正直あまり印象に残っていなかったのです。
しかし、最近読み返してみると...「私たちの真の自己は、気づいている現存(プレゼンス)です」
「自己が自己自身を知る光は、自己自身の光である...それは他の何ものでもなく、それ自身によって知られています」
「(現存にあって)幸福は自己の自然な状態であり、いかなる状況においてもそこにあります。...平安、幸福、愛は、私たちの自己に本来備わっているものです」
何だか誰かさんが言ってそうなことが、ふんだんに出てくるではありませんか?
ここで現存と表現されているものは、(多分)私が現臨と呼んでいるものと同じニュアンスのもののように思われます。
私の場合、"臨んでくるもの"という感じを出しているのです。
私はパクった覚えはありませんよ(笑)...何しろあまり印象に残ってないので...(私は主にラマナ.マハルシ、フランスの神秘思想家モーリス.ズンデルからパクっ...いやインスパイアを受けているのです)
しかし、スパイラ氏は、当世の非二元のティーチャーらしく、神(的なもの)、といった表現は使いません。(使おうとしない?)
私は、自己と神的なものは切り離せないものと感じていますが、彼は現存は、"自己そのもの"という風に強調しているようです。
そして、体、心にとらわれた自己、思われた自己は、見せかけ、幻想に過ぎない、といった、やはり当世流の言い回しも随所に見られますが、概して私には、彼から非二元原理主義者という印象はあまり感じられませんでした。
しかし、その思われた世界に"投げ出されて"生きている大方の人間は、どのようにしてその真の自己、現存に気づくことが出来るでしょうか?
そこでも彼は"直接的な道"の教師らしく、特定の修行法を提示しません。
ただ、"思われた、分離した自己には真実性がないことに気づいていけば、真実は自ずと立ち上がってくる"...らしいのですが、私のように偽我(?)がこびりついているような人間には、ちと難しいようです。
そこで、そういう人間には..."あったi"
"すべてを現存にゆだねる"ということにも、彼は終わりの方で触れているのです。私にはそれがもっとも肝心なことのように思えるのですが、"ゆだねる"ということには、(二元性という言葉を使いたくなければ)自己を超えた"他者性"というものが示されなければならないのではないでしょうか?
神的なものというのは、そういうニュアンスのものです。
もっとも、それは各々の機根、縁にもよるもので、自己探求的な道で現存に目覚められればそれでいいのでしょう。
なお、この本には続刊があり、そちらはまだ読んでおらず、ちゃんとした書評にならなかったのは(毎度のことながら)"悪しからず"、です。廃刊にならないうちに読んでみたいです。