ノンデュアリティでは、例えば誰か、あるものを好きになる、愛するという場合、その対象も、見てる私も見せかけ、幻想にすぎない、という言い方をよくします。愛には二元性はないのだ、と。
だけど、(例によって)私は心からそういう風には思えない、感じられないのですね。
理屈は何であれ、意中の異性が目の前に現れたりすると、心臓バクバク、胸きゅん(死語か?)になってしまうじゃないですか?
頭はともかく、体で感じちゃうことにウソはつけないのですi
だけど...そういうことはこっちの身、ことにハートの辺りで起きているってことも、紛れもない事実です。
そうです。元々自分の中にあったものが呼び覚まされるように...
この事実はこれまであまりにも"身近すぎる"ことからなのか、世間で意識が向けられてこなかったようです。
"ああ...あの人があ...神よ~"、って対象にばかり向けられていたのも確かなことでしょう。
ということは...幻想というのは、その対象そのものというよりも、愛はその"対象だけ"からしかもたらされないという、"思い"に向けられるべきではないでしょうか?
このことに限らず、私は幻想性というものは、こうした"偏った思い"から生まれるものだといつも思っているのですが、これでいくと"対象も私も幻想"と決めつける思い自体も幻想になり得ると言えるでしょう。
しかし、愛のことはこうした一寸カタイ話も無効とならざるを得ないでしょうね。理屈じゃ分かりませんから...
ハートに感じる...これは具体的に感じられるということです。
愛についての、恋愛論とか神愛論とか抽象的な論議というのは、捨てるほどあります。
しかし、そんなこといくら考えたって分かりゃしません。いや、私自身長いこと、そういうことを分かったつもりでいました。
それが私の中に、別の生き物のように息づいているのをはっきりと感じたのは2年くらい前からです。
ずっと昔からおぼろげながら感じてはいたのですが、"意識的になって"みて、そういう風に感じられ出したのです。
それが現代社会が見失っていて、そのためにいやというほどその混迷の姿を見せられているもので、誰にとってももっとも大切なものであるということも...
これは、"じんじん"と感じるあの現臨、すべてを見透かす光といったものが、よりハートを通して感じられるものと言っていいでしょう。
こういうことは、おそらく"私だけ"の有り様からは決して生まれないでしょう。ハートに"火をつける"もの無くしては...
それが最愛の異性、ペット(これらのロス経験がそれを生むことも多くあるでしょう)、導師、神...そういう見える、見えない相手との出会いがそれを生み、育むのではないでしょうか?
これらは、対象というより媒体というニュアンスのものでしょう。
誰もが思い、感じている愛というものは、二つのものが"合い"、一つになることです。
そこに二元も非二元もありません。
それはすべてで一つのものなのでしょう。
だけど、(例によって)私は心からそういう風には思えない、感じられないのですね。
理屈は何であれ、意中の異性が目の前に現れたりすると、心臓バクバク、胸きゅん(死語か?)になってしまうじゃないですか?
頭はともかく、体で感じちゃうことにウソはつけないのですi
だけど...そういうことはこっちの身、ことにハートの辺りで起きているってことも、紛れもない事実です。
そうです。元々自分の中にあったものが呼び覚まされるように...
この事実はこれまであまりにも"身近すぎる"ことからなのか、世間で意識が向けられてこなかったようです。
"ああ...あの人があ...神よ~"、って対象にばかり向けられていたのも確かなことでしょう。
ということは...幻想というのは、その対象そのものというよりも、愛はその"対象だけ"からしかもたらされないという、"思い"に向けられるべきではないでしょうか?
このことに限らず、私は幻想性というものは、こうした"偏った思い"から生まれるものだといつも思っているのですが、これでいくと"対象も私も幻想"と決めつける思い自体も幻想になり得ると言えるでしょう。
しかし、愛のことはこうした一寸カタイ話も無効とならざるを得ないでしょうね。理屈じゃ分かりませんから...
ハートに感じる...これは具体的に感じられるということです。
愛についての、恋愛論とか神愛論とか抽象的な論議というのは、捨てるほどあります。
しかし、そんなこといくら考えたって分かりゃしません。いや、私自身長いこと、そういうことを分かったつもりでいました。
それが私の中に、別の生き物のように息づいているのをはっきりと感じたのは2年くらい前からです。
ずっと昔からおぼろげながら感じてはいたのですが、"意識的になって"みて、そういう風に感じられ出したのです。
それが現代社会が見失っていて、そのためにいやというほどその混迷の姿を見せられているもので、誰にとってももっとも大切なものであるということも...
これは、"じんじん"と感じるあの現臨、すべてを見透かす光といったものが、よりハートを通して感じられるものと言っていいでしょう。
こういうことは、おそらく"私だけ"の有り様からは決して生まれないでしょう。ハートに"火をつける"もの無くしては...
それが最愛の異性、ペット(これらのロス経験がそれを生むことも多くあるでしょう)、導師、神...そういう見える、見えない相手との出会いがそれを生み、育むのではないでしょうか?
これらは、対象というより媒体というニュアンスのものでしょう。
誰もが思い、感じている愛というものは、二つのものが"合い"、一つになることです。
そこに二元も非二元もありません。
それはすべてで一つのものなのでしょう。