私はしばしば、"身に覚える"なんてことを言ったりしています。
何度か触れているように、それは身体的、肉体的なもののみについて言っている訳ではありません。
これは意識とも結び付いているのです。心身一如的なものです。
身に覚えていることは、単に心に抽象的に思い描かれる記憶ではなく、とても具体的に感覚されるものです。(単なる肉体的感覚とも違うものですが...)
これはもう、そう感じてもらうしか伝わらないものですが、そこで"意識が向く、向いちゃうと、パッと...こうなる"、というこの即応性は、意識とその身体的記憶とは相関がある、ということを物語っているのでしょう。
このことを強調することは、宗教やスピ界隈に蔓延している、思考マインドが作り出しているだけの抽象的な観念信仰と区別しようという意図もあるのです。
思考ならぬ意識、身体というものは、我々が思考してその存在を信じる、という先に既にあるもの...先天的なものです。
精神と肉体とを分けて(便宜的にそう理解する場合もありますが)"考えたり"、偏った精神主義者のように物質的、肉体的なものを病的に蔑視し、傲慢にもそれを無くさなければ精神的に進化しない、などと考えたりするのも、後天的な思考で思い描いているだけのことです。
観念的に思考するだけでしたら、物質主義も精神主義も変わりはないでしょう。
どっちみち、観念の堂々巡り、観念の遊離を繰り返しているだけです。
先天的なものにこそ、我々の精神の安定、安心が求められるのではないでしょうか? そこに神的なものがハタラクであろうから...
私はついこないだの先月(何年も前のことのようにも思えます)、近年に経験したことの無いような重い風邪に見舞われ、その感覚を失ってしまったのでした。
記憶にございませんi 分かりません、出てきません...頭の記憶なら何か思い描いて書けばいいのでしょうけど、書けませんi
それは単純に考えれば身体面での疾患です。身体を患ったら出てこない、ということはこの身体的記憶というものを反証したことになるでしょうか?
そして、その何かが詰まってしまった、滞ってしまった、パッとならない、という苦しみは意識面とも重ねられたのです。これも心身一如ということの反証になるでしょうか?
そこで改めて"身をもって"感じさせられました。先天的なものあっての私なのだ、と...
当たり前のように、自分のモノのように感じてたら、アカンのや、ということを...
まあ、そういう風なことも思わされたのですが、思いというものもそうだけど、自分の感覚というのもあてにならないものがありますねえ...
失った訳じゃあなかったのです。だってこうして何たら、こうたら書いている訳だし...
開通したことは素直に喜び、感謝したい気持ちでいっぱいです。
思い上がりかもしれませんが、よく分からないことながら、この不通、開通の事態は決して私だけのこととは思えません。
今、どこかで閉ざされ、詰まり、滞っている事態(世の中全体がそうなっているのか?)があれば、どうか思いを超えたものが臨み、開かれて欲しい...
身体性、意識というものは、個的なものであって、個的なものを超えているのですから...
何度か触れているように、それは身体的、肉体的なもののみについて言っている訳ではありません。
これは意識とも結び付いているのです。心身一如的なものです。
身に覚えていることは、単に心に抽象的に思い描かれる記憶ではなく、とても具体的に感覚されるものです。(単なる肉体的感覚とも違うものですが...)
これはもう、そう感じてもらうしか伝わらないものですが、そこで"意識が向く、向いちゃうと、パッと...こうなる"、というこの即応性は、意識とその身体的記憶とは相関がある、ということを物語っているのでしょう。
このことを強調することは、宗教やスピ界隈に蔓延している、思考マインドが作り出しているだけの抽象的な観念信仰と区別しようという意図もあるのです。
思考ならぬ意識、身体というものは、我々が思考してその存在を信じる、という先に既にあるもの...先天的なものです。
精神と肉体とを分けて(便宜的にそう理解する場合もありますが)"考えたり"、偏った精神主義者のように物質的、肉体的なものを病的に蔑視し、傲慢にもそれを無くさなければ精神的に進化しない、などと考えたりするのも、後天的な思考で思い描いているだけのことです。
観念的に思考するだけでしたら、物質主義も精神主義も変わりはないでしょう。
どっちみち、観念の堂々巡り、観念の遊離を繰り返しているだけです。
先天的なものにこそ、我々の精神の安定、安心が求められるのではないでしょうか? そこに神的なものがハタラクであろうから...
私はついこないだの先月(何年も前のことのようにも思えます)、近年に経験したことの無いような重い風邪に見舞われ、その感覚を失ってしまったのでした。
記憶にございませんi 分かりません、出てきません...頭の記憶なら何か思い描いて書けばいいのでしょうけど、書けませんi
それは単純に考えれば身体面での疾患です。身体を患ったら出てこない、ということはこの身体的記憶というものを反証したことになるでしょうか?
そして、その何かが詰まってしまった、滞ってしまった、パッとならない、という苦しみは意識面とも重ねられたのです。これも心身一如ということの反証になるでしょうか?
そこで改めて"身をもって"感じさせられました。先天的なものあっての私なのだ、と...
当たり前のように、自分のモノのように感じてたら、アカンのや、ということを...
まあ、そういう風なことも思わされたのですが、思いというものもそうだけど、自分の感覚というのもあてにならないものがありますねえ...
失った訳じゃあなかったのです。だってこうして何たら、こうたら書いている訳だし...
開通したことは素直に喜び、感謝したい気持ちでいっぱいです。
思い上がりかもしれませんが、よく分からないことながら、この不通、開通の事態は決して私だけのこととは思えません。
今、どこかで閉ざされ、詰まり、滞っている事態(世の中全体がそうなっているのか?)があれば、どうか思いを超えたものが臨み、開かれて欲しい...
身体性、意識というものは、個的なものであって、個的なものを超えているのですから...