人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

内なる意識、外なる意識

2019-12-15 10:36:24 | 意識、照明
先日、ある人との雑談の中で、「野口整体」のことが話題になりました。
これは、「活現」と呼ばれるスブドのラティハンにも似た、無為的に発現する自動運動を主体にした一種の健康法なのですが、その人は「あれは、ほとんど洗脳だi」と、決めつけたことを言っていたのです。
私は野口晴哉先生創始の本家の門を叩いたことこそ無いのですが、お弟子さんが開いているその実習会には何度か参加したことがあり、その限りでの感想では、少なくとも私には"洗脳"の要素は感じられず、「いや、そんなこたあないi」と、反論したのでした。
第一、私にその自動運動が発現したのは、そのずっと前から前記スブドにおいてあったことだし、元波動瞑想でも、自己流(?)"祈り、瞑想モドキ運動"でもしょっちゅうあることなのです。
洗脳ということなら、そのラティハンを始めるにあたっての短い祈りごととか、元波動瞑想での簡単な誘導の言葉などの方が要素としてはあり得ることです。
洗脳には、言葉というものが絶対的な効力を持つものですから。
しかし、そのグループから離れても発現しちゃう訳だから、それは自己に固有に備えられたものと解していいでしょう。
何よりもその根本的な部分では、その自動運動そのものから"内観され"、受ける感じは一つのものなのです。これは同じ私が受けているのだから当たり前のことなのでしょうけど...。
ただ、その"外観される"ものについては、各々に差異が見られるのもこれ又当然とも言えるでしょう。
そのグループには特有の集合意識というものも形成されるものだから...これに従えば、上記したグループの中で、私が感取した、洗脳的要素がもっとも高かったのは、"スブド"だったと言えます(もっとも宗教的だったとも言える)。
もっともこれは、その"内的な"自動運動そのものについてのことではなく、それ以外の例えばその教祖的人物の言葉に、グループのメンバーが支配され安くなっている事象について感じられるもののことですが...。
私はそういう要素と、内的なものとは、混同されるキケンは感じていたものの、あくまで別のもの、という風に感じていたのです。
これは、おそらく自動運動が発現したのは、スブドにおいてが初めてだったけれど、それ以前から内的な感覚というものに与っていたことが大きかったと思われます。
それは、自己の外部から持ち込まれるものとは区別されるもの、という認識が与えられていたのです。
(ただ、スブドは、そんな洞察をする機会も与えられないような、組織的な洗脳団体ではなかったことが救いだったとは思います)

人の人生のどんな状況においても、"意識の在り方"というものが、如何に絶大な意味を持っているかということは、いくら強調してもし足りないものがあります。
訳の分からんこと言うようですが、宗教の狂信者に典型的に見られるような、その集団の集合意識に迎合され、支配されてしまうような事態というものは、ちっとも"意識的なこと"ではありません。
そういう人間からは、内的な深みというものが感じられてきません。それはまさしく自己の内奥からくるものです。
それに与り、外的な表層的集合意識に呑み込まれないためには、自己信頼を養うことが肝要です。
こうした内からの意識、外に向かう意識などについて、自動運動を伴うエクササイズをいくつか経験したことは、実に貴重な学びを与えられたと思っています。
コメント
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