人は皆幸福を求めて生きています。
今、苦難、不幸にある人はそれから逃れようと...
お金がたまったら、幸福になれる、その先にある幸福を見据えて、夜も昼もつらい仕事をする人も...
同じように苦しい修行に打ち込んでいる人も...
窃盗、詐欺、殺人でさえ、そうしたら今より幸福になれるという思いから手を染めてしまうのではないでしょうか?
シモーヌ.ヴェーユは苦難、不幸と真摯に向き合おうとしました。最後は拒食症のようになって、夭逝してしまいましたが、それもやはりそれを通して、人伝でない生粋の神的なものに与ろうとしたからです。
それはこちらから進んで苦難、不幸を求めるということとは違います。そういうのはどこかおかしい、不自然です。
良し悪しはともかく、苦しみから離れようとする、今より幸福になろうとするのが、人間のごく自然な感情の発露と言っていいでしょう。
しかし...ご存じのようにそれを求めても、幸福になれるとは限りません。
かえって、今よりももっと不幸の種を背負いこむことにもなりかねません。
私たちは幸福を追い求めど、幸福にあることがどういうことなのか、いやそれが求めて得られるものなのか、ということさえ分からないのではないでしょうか?
"ああ...それでも幸福を追い求めなければならない人間の悲しいサガよ..."
ちょいちょい、引き合いに出すことですが、私は苦難で押し潰されそうになった時、西の空にだんだん赤に、紫に染まってゆく夕日を見ているうち、"僕はどうしてこんなに苦しみに沈んでなきゃならないのだろう? 空があんなに美しいのに..."と、感じ入ってしまったことがありました。
それは苦しみから逃れようと、幸福を手に入れようとして、そうなったのではありません。
一寸意識してみれば、そういうものは、何が契機になり、媒体となるのか分からない、そこらじゅうにあることが分かります。
幸福を求めることは、ごく自然な人間の感情だと言いましたが、もっと言えば幸福に赴くことが、ごく自然な人間の有り様だとは言えないでしょうか?
自然にそれに赴くということは、その幸福は求める以前から与えられている、先天的、本来的なものと言えるでしょう。
そして、それにあることはどういうことなのか、よーく味わってみれば...愛、平安と共にあるということが分かります。
それを欠いた幸福など、一体何であろう...そう呼べるものなのでしょうか?
求めても得られない、得たとしても幸福そのものと結び付くのかどうかも分からない...しかし、それは何かを手にしていなくとも、何かをしていなくとも、元々あるものなのです。
先の例で夕日はあくまでそれを見ることが契機であり、媒体なのです。ということは、それを見ていればいつも幸福に与れるかどうかは分からないのです。
この見えるものの奥には見えない神的なものが隠れている...それが映し出されている...愛、平安はそこから来る...
神的なものにある時、それに与れないということなどあり得ようか?
それは、一つのものなのだから...
それと共にあることは、たとえ見たままの今がどんなに苦難、不幸にあったとしても、真の幸福に与ることが出来るのです。
幸福は求めても得られないかもしれません。しかし、苦難にある時、人は神を求めるものでしょう。
これは何も難しい話じゃありません。どうしたってそれは神を手に入れようとする目論見にはならないでしょう。祈り心に自然とさせられるものです。
それがもっとも人間の自然の有り様なのかもしれません。
今、苦難、不幸にある人はそれから逃れようと...
お金がたまったら、幸福になれる、その先にある幸福を見据えて、夜も昼もつらい仕事をする人も...
同じように苦しい修行に打ち込んでいる人も...
窃盗、詐欺、殺人でさえ、そうしたら今より幸福になれるという思いから手を染めてしまうのではないでしょうか?
シモーヌ.ヴェーユは苦難、不幸と真摯に向き合おうとしました。最後は拒食症のようになって、夭逝してしまいましたが、それもやはりそれを通して、人伝でない生粋の神的なものに与ろうとしたからです。
それはこちらから進んで苦難、不幸を求めるということとは違います。そういうのはどこかおかしい、不自然です。
良し悪しはともかく、苦しみから離れようとする、今より幸福になろうとするのが、人間のごく自然な感情の発露と言っていいでしょう。
しかし...ご存じのようにそれを求めても、幸福になれるとは限りません。
かえって、今よりももっと不幸の種を背負いこむことにもなりかねません。
私たちは幸福を追い求めど、幸福にあることがどういうことなのか、いやそれが求めて得られるものなのか、ということさえ分からないのではないでしょうか?
"ああ...それでも幸福を追い求めなければならない人間の悲しいサガよ..."
ちょいちょい、引き合いに出すことですが、私は苦難で押し潰されそうになった時、西の空にだんだん赤に、紫に染まってゆく夕日を見ているうち、"僕はどうしてこんなに苦しみに沈んでなきゃならないのだろう? 空があんなに美しいのに..."と、感じ入ってしまったことがありました。
それは苦しみから逃れようと、幸福を手に入れようとして、そうなったのではありません。
一寸意識してみれば、そういうものは、何が契機になり、媒体となるのか分からない、そこらじゅうにあることが分かります。
幸福を求めることは、ごく自然な人間の感情だと言いましたが、もっと言えば幸福に赴くことが、ごく自然な人間の有り様だとは言えないでしょうか?
自然にそれに赴くということは、その幸福は求める以前から与えられている、先天的、本来的なものと言えるでしょう。
そして、それにあることはどういうことなのか、よーく味わってみれば...愛、平安と共にあるということが分かります。
それを欠いた幸福など、一体何であろう...そう呼べるものなのでしょうか?
求めても得られない、得たとしても幸福そのものと結び付くのかどうかも分からない...しかし、それは何かを手にしていなくとも、何かをしていなくとも、元々あるものなのです。
先の例で夕日はあくまでそれを見ることが契機であり、媒体なのです。ということは、それを見ていればいつも幸福に与れるかどうかは分からないのです。
この見えるものの奥には見えない神的なものが隠れている...それが映し出されている...愛、平安はそこから来る...
神的なものにある時、それに与れないということなどあり得ようか?
それは、一つのものなのだから...
それと共にあることは、たとえ見たままの今がどんなに苦難、不幸にあったとしても、真の幸福に与ることが出来るのです。
幸福は求めても得られないかもしれません。しかし、苦難にある時、人は神を求めるものでしょう。
これは何も難しい話じゃありません。どうしたってそれは神を手に入れようとする目論見にはならないでしょう。祈り心に自然とさせられるものです。
それがもっとも人間の自然の有り様なのかもしれません。