人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

道は人の数だけある

2019-12-11 11:59:32 | 求道、探究
私は、自分が特別な教えや修行法などに依拠してこなかったからと言って、それらを否定するつもりはありません。
それに取り組みたい向きは、多いにされたらいいと思います。
私がついつい否定的になってしまうのは、"正しい道はこれしかないi"と決めつけて、他を排するように主張する向きに対してです。
自分が本当に"これしかない"と思い、感じるのでしたら、他人には当てはまらないですが、それはそれで結構なことでしょう。
しかし、人にはそれぞれ縁も気根も違う訳だし、人の数だけ教えや修行法があると言ってもいいくらいでしょう。
逆説的ですが、それだからこそ百花繚乱的な多様な調和が保たれるようにも感じてきます。
あなたも私もそうして好きに生きているのです。
不調和感をもたらすのは、例えばバラが他を押し退けて、厚かましくもバラだけであろうとするようなことです。
しっかし...多いんだな、この流儀が...だから、つ、つい...
教師を生業にしてる人、ある特定のグループに関係している人などは、つい自分の依って立つ居り場を強調するためか、その教え、メソッドに固執してしまう傾向があるようです。
そしてそれに従う人たちが居て、そこに教える人と従うものとの関係性がある...これはもう当たり前の二元的現世の有り様なのです。
そこで、例えば如何に非二元的なことが語られようとそうなのです。
で、そんなんで、ついついこういう言葉が出ちゃうのでしょう。"真実はこれっきゃありませんi" そして、こう続く..."あなたという個人は本当は居ないんですよ"、"すべては愛、たとえ戦争で悲惨な光景があったとしても、惨たらしい殺人があったとしても、それも愛の表れにすぎないのですよ..."
そう聞かされて、"信じ、従わなければならないような気がしてる"人は、実際にそう思えているでも、感じているでもなしに、思おう、信じようとします。
"そう思っているのはあなたのエゴ、マインドなのですよi"、と言われたって、思えんものは思えんし、感じんもんは感じません。
そこには、"そうさせるもの"というものが欠落しているのです。
そして、そう言われて(エゴを余計に刺激されて)なおさら釈然としないまま、迷ったまま、無理に合わせようと、信じようとする...本当に思考、マインドに取り込まれてしまう、というのはこういうことではないでしょうか?
現実にそう思えない、感じないことはどうしようもないことなのです。
そのことを無視したりするのは、自分を誤魔化しているだけではありませんか? 決してそこから、本心、真我というものは開かれないでしょう。迷い、誤魔化しがあるうちは...
どんな教えでも修行法でも迷いがあるということは、どこか理解が足りないか、そもそも自分にそれらがマッチしてないものがあるのでしょう。
だから、人それぞれ縁、気根を無視した"これっきゃない道"は、うっとうしいだけだ、と言うのですi
あなたにとって最善の道とは?...んなもん、分かりきってるじゃありませんかi
あなたが好きで、好きで、惹かれてやまない道ですi...そこに迷いは無いはず...それは"誰かがそう言っていた"からでなく、あなた自身から来るのです。
本当にそうなってたら思わず、思いが超えられていることが分かるでしょう。
まあ、それも自分のことながら、うっとうしいことをいくつか経験しないと分からないのかもしれません...。
コメント (5)
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