私がしばしば、"じんじんしてくる"とか"現臨にある"、"ある照明を受けている"、"見えざる導き"とか言ったりしていることは、すべて同じことをその感じ方の違いで言い換えているものなのです。
40年くらい前に初めてそれらしきことを感じるようになったのですが、その当時はまだ今ほど意識的になってなかったのです。
何せ"意識している"ということ自体"意識してなかった"くらいで、同様に世の中的にもそれと"考えていること"とどう違うのか、といったことなど今ほど理解が進んでなかったようです。
"現臨"、"照明"、"見えざる導き"のことを、アリアリと目の当たりにしたのは、それから数年後の爆発的な体験を通してのことでしたが、そんな訳で、それまでは自分の思いなのか、思いを超えた事態なのか、判然としないところがあったのです。
例えば、あることに光が当たるというか、これがまあ、"照明"というものとつながる訳ですが、"意識がそこに向かう"ということがあると、それを"行いに表さなければならない"、なーんてことを何かの本で読んだか、どっかで思ったりするのです。
これは一種の強迫観念みたいなのが付きまとう訳で、そこで"考えているだけじゃダメなんだi"と、"考えられている"のです。
するとそうなっている自分は、ちっとも"楽じゃない、幸福じゃない"、ということは感じているはずなんですが、頭の自分は"それじゃあ、ダメだi"と、言いたいようなのです。
自ずと、幸福になっていることに、一体何の付けたしを加えようというのか?
"こら、アタマ、何が一体ダメなのかi"、と言ったって、多分"世の中という神様の仰せだ"、というくらいしか分からないでしょう。
人間の在り方というのは、"考えること"か"行動すること"しか無いのでしょうか? 考えたことは、表さなければならないこと、というのは、何かを表す生き物のサガとして一理あることと思いますが、"現臨"、"照明"など神的なものを"感じている"という事態というものは、正しくそれを感じ、受け入れることしかないのです。
これは、"感じること"というもっとも根幹的なことがなおざりにされてきたということでしょう。
そして、"現臨に捉えられる"ような事態になったなら、もはや考えたり、行うことは不可能になります。
それは"意識が現臨にある"ということであり、実に"意識的であること、感じること"が、人間の根本的な在り方ということが自明に分かることなのです。
今までの多くの宗教などの精神的な道では、何と倫理的なことに絡めた、心がけを変えるとか、行いを正すとか、出来そうにないことばかりの、新たに不自由な種をもたらすような教えが説かれてきたことでしょうか? そうしないと幸福になれないとでも?
それは考えたり、行動しなくとも、意識を向けるだけでそれ自体が臨んでくるのではありませんか?
それも、"意識を向けなければならない"んじゃなくて、そのものがあるから意識が向いちゃうだけの話です。
"自分で変えようとしなくても、変えさせられるものがある"...これを福音と言わずして何であろう...
こういう風に感じられるようになったのは、自分がどうとかなったというよりも、あの御方の方がこちらにより顕わになってきた、ということなのでしょう。
40年くらい前に初めてそれらしきことを感じるようになったのですが、その当時はまだ今ほど意識的になってなかったのです。
何せ"意識している"ということ自体"意識してなかった"くらいで、同様に世の中的にもそれと"考えていること"とどう違うのか、といったことなど今ほど理解が進んでなかったようです。
"現臨"、"照明"、"見えざる導き"のことを、アリアリと目の当たりにしたのは、それから数年後の爆発的な体験を通してのことでしたが、そんな訳で、それまでは自分の思いなのか、思いを超えた事態なのか、判然としないところがあったのです。
例えば、あることに光が当たるというか、これがまあ、"照明"というものとつながる訳ですが、"意識がそこに向かう"ということがあると、それを"行いに表さなければならない"、なーんてことを何かの本で読んだか、どっかで思ったりするのです。
これは一種の強迫観念みたいなのが付きまとう訳で、そこで"考えているだけじゃダメなんだi"と、"考えられている"のです。
するとそうなっている自分は、ちっとも"楽じゃない、幸福じゃない"、ということは感じているはずなんですが、頭の自分は"それじゃあ、ダメだi"と、言いたいようなのです。
自ずと、幸福になっていることに、一体何の付けたしを加えようというのか?
"こら、アタマ、何が一体ダメなのかi"、と言ったって、多分"世の中という神様の仰せだ"、というくらいしか分からないでしょう。
人間の在り方というのは、"考えること"か"行動すること"しか無いのでしょうか? 考えたことは、表さなければならないこと、というのは、何かを表す生き物のサガとして一理あることと思いますが、"現臨"、"照明"など神的なものを"感じている"という事態というものは、正しくそれを感じ、受け入れることしかないのです。
これは、"感じること"というもっとも根幹的なことがなおざりにされてきたということでしょう。
そして、"現臨に捉えられる"ような事態になったなら、もはや考えたり、行うことは不可能になります。
それは"意識が現臨にある"ということであり、実に"意識的であること、感じること"が、人間の根本的な在り方ということが自明に分かることなのです。
今までの多くの宗教などの精神的な道では、何と倫理的なことに絡めた、心がけを変えるとか、行いを正すとか、出来そうにないことばかりの、新たに不自由な種をもたらすような教えが説かれてきたことでしょうか? そうしないと幸福になれないとでも?
それは考えたり、行動しなくとも、意識を向けるだけでそれ自体が臨んでくるのではありませんか?
それも、"意識を向けなければならない"んじゃなくて、そのものがあるから意識が向いちゃうだけの話です。
"自分で変えようとしなくても、変えさせられるものがある"...これを福音と言わずして何であろう...
こういう風に感じられるようになったのは、自分がどうとかなったというよりも、あの御方の方がこちらにより顕わになってきた、ということなのでしょう。