あの初めて”人生の裏側“に踏み入れた時というのは、ホント~に人生の、いや今生のこととは限らない、“すべての生”に関わるであろう、あらゆることが凝縮されていた、と常々感じています。
どれほど凝縮されていたかというと、そこから再び”人生の表側“に戻されると、それがどうゆう重要なことを示唆していたか、ということを身に覚えていないくらいなのです。(笑)
そう、ホントに信じれないくらい元の黙阿弥に帰してしまったのです!
何でそういう風に感じられ、言えるかというと、現在はある程度見に覚えているからに他なりません。ここが肝心なことで、身に覚えるというのは、頭の記憶ではないということです。
今はあの時とは違う!...感じることが出来ます。
そして、何故そのように元の黙阿弥になってしまったかがはっきり分かります。
心が神的なものと切り離されてしまったからです。厳密には深い意識のレベルでは切り離されてはいません。そうなったらこうして書いてなどおれません!
もっと具体的に言えば、それは神的な愛です。
すべては神の愛に捉えられたことから始まったのです。何が凝縮されていたかと言って、神の愛に与ることの何ものでもないですよ!
このことは全身全心全霊をもって感じさせられていたはずなのです。
「僕は何も知りませんでした!」と、その時、私は神に魂のどん底から叫びました!
私の知っている人生で神の愛は勿論ですが、人間的愛ですら、あんなにもアリアリと目の当たりにしたことは無いし、それに反応させられたことなど一度もありません!
しかし、現世に戻って...そのことがウソのように、私はいつもの感情を押し殺したような、理知的な装いをした(そういう仮面をしていたということ)、人生を斜めに見ているような人間に戻ったのです。
そしてこんなことが過りました。...“あれは、本当にぶっ飛んだものだったけど、幻想なのかもしれない?...“
私は、今書いていて我ながら、筆、いや指が震えてくるのを感じて、その時の私にこう言ってやりたい!...“それは、アカン!、ダメだって!...お前、心に無いことを思おうとしているやろ!(何故か大阪弁)、あれは無かったことにしようなぞと!...そんな忘恩なんか...どうなったって知らんぞ!“
それから半年ばかり後、私はまるで良きことはすべて坂道を転げ落ちてゆくような、恩寵から見捨てられたような精神的苦境に見舞われてしまったのでした。
これは今思えば、恩寵を、神の愛を否定するような心持ちになったこととて、当然の成り行きのようなのですが、当時の私は、実にそれが不可解に感じてならなかったのです。
それには、“俺は悟ったぞ!“と、増上慢になり、エゴが膨らんで、それに押しつぶされちゃうから、ああいう体験のことは封印することにした、という思惑も一応は分かります。
いや、それなら尚更、そのことを神の愛、恩寵に意識を向けるべきではなかったか?!
たとえ、他のことはすべて幻想だったとしても、それを無きものにしようなぞ!
すべての生を否定することになるではないか!
と、...な~んてことをこうして書いていられるのだから、当時は失われたと、又否定しようと思っていても、心の底にはずっと刻印されていたのです。
そうですよ!...何だかんだ言って、”絶対忘れられることなど出来ない!“、ってのが39年前の私の本心なんだ!...“そやろ!”
ただ、そのことを理解するには、未熟過ぎた、種が芽生えていなかった!...それに尽きます。
私の思いを超えたところで何かが成長している?
そうして、つらい思いをしたから、今があるのでしょう?...
どれほど凝縮されていたかというと、そこから再び”人生の表側“に戻されると、それがどうゆう重要なことを示唆していたか、ということを身に覚えていないくらいなのです。(笑)
そう、ホントに信じれないくらい元の黙阿弥に帰してしまったのです!
何でそういう風に感じられ、言えるかというと、現在はある程度見に覚えているからに他なりません。ここが肝心なことで、身に覚えるというのは、頭の記憶ではないということです。
今はあの時とは違う!...感じることが出来ます。
そして、何故そのように元の黙阿弥になってしまったかがはっきり分かります。
心が神的なものと切り離されてしまったからです。厳密には深い意識のレベルでは切り離されてはいません。そうなったらこうして書いてなどおれません!
もっと具体的に言えば、それは神的な愛です。
すべては神の愛に捉えられたことから始まったのです。何が凝縮されていたかと言って、神の愛に与ることの何ものでもないですよ!
このことは全身全心全霊をもって感じさせられていたはずなのです。
「僕は何も知りませんでした!」と、その時、私は神に魂のどん底から叫びました!
私の知っている人生で神の愛は勿論ですが、人間的愛ですら、あんなにもアリアリと目の当たりにしたことは無いし、それに反応させられたことなど一度もありません!
しかし、現世に戻って...そのことがウソのように、私はいつもの感情を押し殺したような、理知的な装いをした(そういう仮面をしていたということ)、人生を斜めに見ているような人間に戻ったのです。
そしてこんなことが過りました。...“あれは、本当にぶっ飛んだものだったけど、幻想なのかもしれない?...“
私は、今書いていて我ながら、筆、いや指が震えてくるのを感じて、その時の私にこう言ってやりたい!...“それは、アカン!、ダメだって!...お前、心に無いことを思おうとしているやろ!(何故か大阪弁)、あれは無かったことにしようなぞと!...そんな忘恩なんか...どうなったって知らんぞ!“
それから半年ばかり後、私はまるで良きことはすべて坂道を転げ落ちてゆくような、恩寵から見捨てられたような精神的苦境に見舞われてしまったのでした。
これは今思えば、恩寵を、神の愛を否定するような心持ちになったこととて、当然の成り行きのようなのですが、当時の私は、実にそれが不可解に感じてならなかったのです。
それには、“俺は悟ったぞ!“と、増上慢になり、エゴが膨らんで、それに押しつぶされちゃうから、ああいう体験のことは封印することにした、という思惑も一応は分かります。
いや、それなら尚更、そのことを神の愛、恩寵に意識を向けるべきではなかったか?!
たとえ、他のことはすべて幻想だったとしても、それを無きものにしようなぞ!
すべての生を否定することになるではないか!
と、...な~んてことをこうして書いていられるのだから、当時は失われたと、又否定しようと思っていても、心の底にはずっと刻印されていたのです。
そうですよ!...何だかんだ言って、”絶対忘れられることなど出来ない!“、ってのが39年前の私の本心なんだ!...“そやろ!”
ただ、そのことを理解するには、未熟過ぎた、種が芽生えていなかった!...それに尽きます。
私の思いを超えたところで何かが成長している?
そうして、つらい思いをしたから、今があるのでしょう?...