人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の手は一つ

2022-07-24 10:29:09 | 宗教
前回も触れたように、私は幾つかの宗教的グループと関わり、各々が伝えている”秘儀伝授“?!を受けて来たのです。
心残りに思っていることは、玉城康四郎先生に就いて参禅する機会を持てなかったことです。
それは謂わゆる禅宗の禅とどう違うのか、何よりも“ダンマが顕わになる”ことを体感してみたかったですし、その他直接先生の口からお聞きしたかったことも多々ありました。
もう少し、早く先生のことを知っていたなら、その法縁に接し得たのは間違いありません。
そしてもっと早く、精神的覚醒というものについて、理解を深めることも出来たであろうと感じています。
ところで、もしその種々の秘儀のいずれかを通じて、確信、覚醒体験に与っていたとしたら...それは私にとり、他の諸々のものの中の一つのようには捉えられず、そのグループ共々特別な意味を持つようになるだろう、と想像されます。
そうなるのは、ごく自然な流れだと思います。だからといって、“これだけが唯一の道だ!”などと狂信に走ったりすることは別のことですが...それは多分、いや絶対無い!
私が初めてそれに与ったのは、いずれの集会、秘儀を通じてでもなく、全く単独の、それも俗事に従事している最中だったのです!
言うなれば、私の神、見えざる導師から直接秘儀伝授を受けたのです!...これはもう決定的な意味がある!...他の道なんかと比べられるもんですか!...って、そんなこたない!、多分?...他の道でそうなったことが無いので分かりません。
しかしながら、その後小池先生なき後のキリスト集会、キリスト友会(クエーカー)で、最初の爆発的規模でないですが、“神の手に捉えられて”、ある種の法悦状態に与ったことがありました。
集まっている人たちの目にはおそらく、”ああ、このヒト、我々の集会でキリストに捉えられたのだ!“、と映ったことでしょう。
そうかもしれません、が...私自身に自覚されていたものは、聖書に伝えられているキリストに直結するものではありませんでした。
クエーカー的に、“内なる光、キリスト”と言われれば、そうなのかもしれませんが、キョーレツに呼び覚まされるものといったら、あの原体験に臨んだもの...名付けられない、神的な現臨だったのです!
同じことは、キリスト教的でない、別の集会でも起こり得たはずです。
集会ごとに各々違う聖なるものが臨在するなんてことはあり得ません!
要するに、同じ神の手に捉えられるはずなのです。当たり前でしょ?
私の実存は一つしか無いのだから...
逆に言えば、キリスト様でもミロク様でも阿弥陀様でもスサノオ様でも、あるイメージを借(仮)りて表れるものは、あまりそれに囚われなければ、何でもいいのでしょう。
各々の神縁、仏縁に応じたものに合わされる、というのも自然な流れだと思います。
人によっては、そういうイメージを借りないと、祈りでも瞑想でも深く入って行かない場合もあるかもしれません。
でも、どこかでそれらも突き抜けて、相対次元を超えさせられる契機もあるでしょう。
私の場合は、様々な秘儀に接して来たが、そのいずれも定着することは無かったということです。
これは、おそらく学生時代、ある宗教に入っていて、そこから離れる際に、特定の宗教への信仰ごとというものが壊れてしまったことと、関係があるのでしょう。
どっちみち、自分の縁に従わされることが、ベストで自然な道なのでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする