人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

知識欲に導かれて

2022-07-11 10:48:05 | 求道、探究
私は昔から知識欲が大勢でして、自分で言うのもおかしいですが、宗教や精神世界に関する知識もかなりある方だと思っています。
そんなものはねえ、その道が深ーい段階に入る上では、何の訳にも立たないんですよ!、ただのガラクタにすぎないんだから!...な~んて、アタシャ、頭ごなしに、そういう頭を使うことを否定するつもりはありませんよ!
そりゃ、確かにある関門を突破する際には、そうならざるを得ないこともあります。
もっと具体的に言えば、それは神が顕わになる時でしょう。そうならざるを得ないとは、自分じゃなく、神の方がそうなさしめる、ということに他ならないのです。
そうでなきゃ、”知識などなんにもならない“、ということも頭でそう思ってるだけでしょう。
私について言えば、私はそういうサガを持って生まれた人間であることを認めなければなりません。そして知識を追求することでかなり役に立っている部分もあるということも...
これは、ほとんど同じ時期に知ることになったのですが、キリストの無者「小池辰雄」先生や、先生の訳本無しには、おそらくひっかからなかったであろう、現代の預言者「ベルジャーエフ」、謎の秘教団体、「大調和協会」の「命御、命位様」、小長谷修聖師を通じて降ろされていた、ミロク神示の前身、「要之神示」などは、その後もずっと私に少なからずの影響をもたらしたものでしたが、おそらく私の大勢な知識欲が高じなければ、出会うことはなかったでしょう。
そして又、それら道の縁たちを通じて感じさせられたことは、知識を追い求めているだけではダメだ、ということだったのです。
それらを通じて神が顕わになるということ、向こうに神を置いて、思い描き、崇めるのでなく、こちらの実存が揺さぶられるようにも、中から呼び覚まされるものを感じずにおれなかったのです。
それらから知識的にも多く学ばされたことも確かなことでしたが、それは愛とか情動的なものと切り離されず、それに裏打ちされたものだ、ということを当時はそうとは知らずに示されていたのです。
そういうことも私の生来からの大勢な知識欲から端を発していたかもしれないのです。
もっとも、それは“行きつくとこまで行かないときが済まない!“、というパッションの表れなのかもしれませんが...
元々知性的というより、情動的な人間という自覚はあります。
何にしても、人それぞれ持って生まれた気線に応じた在り方、導かれ方というものがあるのでしょう。
コメント
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