人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨と動くもの

2022-07-28 10:12:02 | 現臨、ハタラキ
「如来とは、ダンマに目覚めて如来となったものである。如来は法身であり、ダンマをみずからの体となしているものであり、従ってダンマも如来も同じ意味である。しかし如来となると、我々にはダンマよりもいっそう親しみを覚える。というのは、如来とは”真如より来れるもの”という意味で、如来そのものが”ダンマが我々に顕わになる”、ということを表しているからである」(玉城康四郎「仏教を貫くもの」/大蔵出版刊)

言葉の響きというのは、とても大事なものです。
僅か一文字だけでも、そこに内包されているものが伝わって来ることがあります。
玉城先生が述べられている“如来”という言葉などは正にそうです。阿弥陀如来、薬師如来...それは仏様の名前でありながら、そこに既にその顕現して来る様が言い表されているのです。
そうなると、単なる”称名”に留まるものではなくなってしまうようです。
この意味では、熊野、蔵王などの”権現“という名前もそうした響きを伝えるものと言えるでしょう。
私が現臨と呼んでいるものも、それは元より一般に認知されてはいない言葉ですが、ただの名詞として使っているのではありません。
それは神的なものが、現実に臨んでくる様を言い表しているに他なりません!
“ああっ!、ほら、そう書いているだけで、ジンジンしてきたーっ!”
これは私的には、どの宗派にも限定されない超宗派的なマントラと言ってもいいものなのです。
といって、そういう称名などしてないですが...要するに、パッと意識が向けられ、そのものに包まれてしまう、言葉であって、そうでないものをそう言っているのです。
言葉に、それを超えた動くもの、生きてハタラくものが媒体されているのです。
何だか念仏の奥義みたいなことを言っているようですが...
各人にもそのように、強く即応して来るようなマントラというものがあるでしょう。
名前であって動くもの...それはどこまでも自己自身に直に関わるものであるのは言うまでもありません。
現臨...”これは、なんか響きがあっていいな!”、なんてテキトーに使っていたのですが、いつの間にか私の方が使われるようになったようです。
コメント
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