私が日頃書いていることは、学生時代に入っていた新宗教で教えられていたことの裏返しのようなことが多いのです。
そこでは、“今まで世に出ていた神は中途の神で、この教えを通じて、真の、世の元からの神が現れることになったのだから、この教えによらなければ救われないのです”、などと説かれておりました。
ご存じの方も多いでしょうが、この教えは、その教団の母胎となった大本教のそれを踏襲したものであり、それを更に我田引水的、教条的要素を強めたものと言うことが出来るでしょう。
真の神は、その教団を通じてしか知ることが出来ないと言うのです。“んなばかな!”、って私もホントにそんなこと信じてたのか?...でも全的にじゃなかったですよ、だから離れることが出来たのですから...
神はそんな偏狭なものでなく、もっと普遍に根差したものであるはず...それに接したら愛、平安に導かれるはず...そして、それは誰にとって真の神なのだろうか?、私が真の神を知りたければ、私に直に知らされねばならないのではないのか?、という思いが内心には去来していたのです。
誰に教わるということもなく、こういうことは自然に理解されていたのです。
教団の教えなどとっくに過去のものになってしまいましたが、そこに隠れていた内なる神は、世に表に現れたのでしょうか?
いや、神は今までも、これからもけっして世に出ることは無いでしょう。神は、世におもねることはけっして無い!
私が信じていたのは、中途の神、神ならぬ人が、世の中がそう信じ、従っている思念神に過ぎなかったのです。
私の実存は、どうしてもそれでは充たされることがありませんでした。
そこから離れることで本格的に、”神よ、どうか私に表れて下さい!、他の何ものか、夾雑物なんかを通してでなく、私に直に表れて下さい!“、という求め、祈りが始まったのです。
ただ、“真の神が表れる”、というある種のマントラにも似た“根源語”は、昔も今も私の内になり響いています。
私やあなたにとっての真の神は、実存を通してしか表れようがありません。
あなたの救いもそのことから離れては無いでしょう。あなたの神によらなければ!...
信じている神を世に出したい、という思念によって生まれた神の時代はとっくに終わった!
真の神は、あなたがどうこうするということで無しに、神の方から表れようとしている!...
あなたにも感じられる?
そこでは、“今まで世に出ていた神は中途の神で、この教えを通じて、真の、世の元からの神が現れることになったのだから、この教えによらなければ救われないのです”、などと説かれておりました。
ご存じの方も多いでしょうが、この教えは、その教団の母胎となった大本教のそれを踏襲したものであり、それを更に我田引水的、教条的要素を強めたものと言うことが出来るでしょう。
真の神は、その教団を通じてしか知ることが出来ないと言うのです。“んなばかな!”、って私もホントにそんなこと信じてたのか?...でも全的にじゃなかったですよ、だから離れることが出来たのですから...
神はそんな偏狭なものでなく、もっと普遍に根差したものであるはず...それに接したら愛、平安に導かれるはず...そして、それは誰にとって真の神なのだろうか?、私が真の神を知りたければ、私に直に知らされねばならないのではないのか?、という思いが内心には去来していたのです。
誰に教わるということもなく、こういうことは自然に理解されていたのです。
教団の教えなどとっくに過去のものになってしまいましたが、そこに隠れていた内なる神は、世に表に現れたのでしょうか?
いや、神は今までも、これからもけっして世に出ることは無いでしょう。神は、世におもねることはけっして無い!
私が信じていたのは、中途の神、神ならぬ人が、世の中がそう信じ、従っている思念神に過ぎなかったのです。
私の実存は、どうしてもそれでは充たされることがありませんでした。
そこから離れることで本格的に、”神よ、どうか私に表れて下さい!、他の何ものか、夾雑物なんかを通してでなく、私に直に表れて下さい!“、という求め、祈りが始まったのです。
ただ、“真の神が表れる”、というある種のマントラにも似た“根源語”は、昔も今も私の内になり響いています。
私やあなたにとっての真の神は、実存を通してしか表れようがありません。
あなたの救いもそのことから離れては無いでしょう。あなたの神によらなければ!...
信じている神を世に出したい、という思念によって生まれた神の時代はとっくに終わった!
真の神は、あなたがどうこうするということで無しに、神の方から表れようとしている!...
あなたにも感じられる?