安倍元首相の狙撃死事件、本当に驚きました。
一時は、政治、思想団体絡みのテロかと思いましたが、犯人の某宗教団体への私怨によるものとのことで、類発の怖れは無いと思われます。
政治家が宗教団体のスポンサーになることなど昔から常識であり、安倍氏がどこまで関与していたかは分からないですが、本当はそこの幹部を狙っていた、というのだからお気の毒な話ですね。
色々言われるけど、他の歴代首相にも言えることですが、安倍政権下で日本が戦争に巻き込まれるとか、思想統制が行われるとか、現実に国民が被害を被ったということもなく、比較的穏やかに暮らせることが出来たのだから、私はその長年のお勤めを感謝したいと思っています。
常に柔和な態度を崩そうとせず、感情の高ぶりを見せようとせず、裏を返せば何を考えているのか分からない(あの笑みが...)、という歴代の中でも最も日本人らしい首相だったんじゃないかと思います。(私など森友学園問題の時は、九割方失脚すると思いましたが...色々な意味でスゴイ人なんでしょう?)
ご冥福をお祈りします...。
私は、いつも“思いを超えた、離れた!”、などと言ってますが、自分が、自分からそうなったなんてことは言ってません。
元来私は、とてもそんなこと言える人間じゃないのです。思いが離れられない、固着する質の性格なのです。今でも!
人を殺してやろうと思ったことだってあります。そういう負の思いに取り付かれると、自分から中々離れられなくなります。
”ポジティブな思いに切り替えて!“、なんて言いますが、もうその思いの根っからしてネガティブになってるようで、そんなこと出来る気がしてきません。
だから、自分からはどうすることも出来ないのです!
ただ一つ、私は何も出来ないけど、神的なものに通ってもらうということがあります。
このものにあって、”思いが超えられる“、ということがあるだけなのです。
ま、これを身に覚えるようになって、あの固着状態がずっと続くことは無くなったのは確かなことですが...
何も思いから離れようとか、思い方を変えようとしなくても、自ずと思いが閉ざされた状態が開かれる!
何故そうなるのか?...多分私は、昔からある、その思いの固着状態にある時の苦しみを自覚していることと、自分で思いを変えられない、という無力感、絶望感をイヤというほど知っているからでしょう。
だから、思いを超えた神的なものが臨んだら、ぱっと意識が向かい、自分をそこに預けることが出来るのでしょう。
だから、私をどうこうするんじゃなく、与るということがあるだけなのです。
この不穏な世の中にあって...あらゆる人に、それぞれの在り方で、“神的なものが顕れ、生きて働かんことを!”
かく祈らざるを得ません。
一時は、政治、思想団体絡みのテロかと思いましたが、犯人の某宗教団体への私怨によるものとのことで、類発の怖れは無いと思われます。
政治家が宗教団体のスポンサーになることなど昔から常識であり、安倍氏がどこまで関与していたかは分からないですが、本当はそこの幹部を狙っていた、というのだからお気の毒な話ですね。
色々言われるけど、他の歴代首相にも言えることですが、安倍政権下で日本が戦争に巻き込まれるとか、思想統制が行われるとか、現実に国民が被害を被ったということもなく、比較的穏やかに暮らせることが出来たのだから、私はその長年のお勤めを感謝したいと思っています。
常に柔和な態度を崩そうとせず、感情の高ぶりを見せようとせず、裏を返せば何を考えているのか分からない(あの笑みが...)、という歴代の中でも最も日本人らしい首相だったんじゃないかと思います。(私など森友学園問題の時は、九割方失脚すると思いましたが...色々な意味でスゴイ人なんでしょう?)
ご冥福をお祈りします...。
私は、いつも“思いを超えた、離れた!”、などと言ってますが、自分が、自分からそうなったなんてことは言ってません。
元来私は、とてもそんなこと言える人間じゃないのです。思いが離れられない、固着する質の性格なのです。今でも!
人を殺してやろうと思ったことだってあります。そういう負の思いに取り付かれると、自分から中々離れられなくなります。
”ポジティブな思いに切り替えて!“、なんて言いますが、もうその思いの根っからしてネガティブになってるようで、そんなこと出来る気がしてきません。
だから、自分からはどうすることも出来ないのです!
ただ一つ、私は何も出来ないけど、神的なものに通ってもらうということがあります。
このものにあって、”思いが超えられる“、ということがあるだけなのです。
ま、これを身に覚えるようになって、あの固着状態がずっと続くことは無くなったのは確かなことですが...
何も思いから離れようとか、思い方を変えようとしなくても、自ずと思いが閉ざされた状態が開かれる!
何故そうなるのか?...多分私は、昔からある、その思いの固着状態にある時の苦しみを自覚していることと、自分で思いを変えられない、という無力感、絶望感をイヤというほど知っているからでしょう。
だから、思いを超えた神的なものが臨んだら、ぱっと意識が向かい、自分をそこに預けることが出来るのでしょう。
だから、私をどうこうするんじゃなく、与るということがあるだけなのです。
この不穏な世の中にあって...あらゆる人に、それぞれの在り方で、“神的なものが顕れ、生きて働かんことを!”
かく祈らざるを得ません。