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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨と現実生活②

2023-03-05 10:05:26 | 現臨、ハタラキ
いつも言っているように、“神的な現臨にある“、ということは何ら特殊なことを言っているのではなく、表現は様々なれど、宗教やスピなどの世界では普遍的に受容されているものなのです。
これを欠いてはそれらは生命を失い、抽象的観念に流れるか、形骸化の一途を辿ることになるでしょう。
言い方を変えれば、現在多くの宗教が抱えている問題こそがこのことに起因しており、その“活性化“ということを考えた場合、このことが常に根底に見据えられなければならないでしょう。
現臨というもの無しには、神も仏もタオもワンネスも本当には生きて来ないのです!
そこで、どうしたらこの神的な息吹を呼び起こし、それを現実生活に定着させ、適応させるか、というようなことを大概の”現代人“なら考えるのでしょう?
神的な現臨に与る方法...私も考えたこともあり、又そういうことを謳った教えを試したこともありましたが...それによって、これを書いている今のような、“現臨にある状態”に直接導かれたことは無いのです!
むしろ、段々そういうことがこちらの意志的、人為的在り方と結びつくような感じがして、ある種の空しさを覚えるようになりました。何かがズレている、ブレている...意識の置き方、在り方がどうも違うらしい...
そして、そういう思いを手放すことによって、今のように”現臨の常在感“を覚えるようになったのです。いや、これはホントは、”現代人“におもねった言い方なのでした。
正確に言えば、実にその神的なものが臨むことにより、その思いが粉砕され、手放されることになったということなのです。
思い、為そうとする自分にではなく、神的なもの、そのものに意識の力点が移っていったのです。
そうなると...この現臨感覚を現実生活に定着させ、適応させよう...なんてことは、全くズレた、ブレたやり方というか、在り方という他ないでしょう!
もし、そういうシステマチックな方法論が開発された時、多くの現代人が考える思惑に反して、我々から神的な生きたハタラキは失われることになるでしょう。
これは、思い、為そうとする、考える主体としての我々と、その生命自体とも言うべきものとが二元的に分離してしまうことから来るのです。
神的な生命が、我々の思念世界に取り込まれるということを意味しているのです。
何故、こうした転倒した事態を招いてしまうのでしょうか?
そのハタラキに伴う愛、平安というものを現代人は失ってしまったからでしょう。
それは神的なものと絶対に切り離されないものです。
考える主体である我々は、それから切り離されている...
だから...神そのものを求めることがあるばかりなのです。祈りをもって。
祈りは、考えられた方法というものを超えたものです。
常に現実生活においても、祈りを通して神とつながることで、現実生活に適応させようとか殊更目論む必要も無くなるでしょう。
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