人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神を受け入れること

2023-03-16 09:58:44 | 求道、探究
”○○先生の道は、完全覚醒の境地に確実に導く唯一無二の道です!”、とか言ってる御仁に、”どうしてそういうことが言えるのですか、その根拠は何ですか?”、って向けても、何一つ答えられないでしょう。
それは、中身など何にも無い、”そう信じたい、信じさせたい”感情論にすぎないからです。
こういう虚言はすべて要らない!、大いなる無駄!...こういうものが、リアルな精神的な道をダメにするのですから!
”現実に即して”分かりきったことを言いましょう!...如何なる道においても、真摯に、意識的に向き合わなければ、ごくシンプルにその気がなければ、何一つ開かれることは無い、ということです!...ペラペラな虚言などにつき合ってられるか、ってんだ!
意識的な精神的態度とはどういうものか?...ここでは神を待ち望む、受け入れることについてなのですが...もっとも意識的でない、脱線的な在り方のことを書いた方が分かりやすいかもしれません!
もし、神があなたに直接自身のことを示そうとしているとして...”私は神のことは分かってます!、神は六次元の存在で、宇宙の霊的進化の七番目の段階で...”、など何の根拠もない、ガラクタのような虚説で頭を一杯にしてたらどうでしょうか?
又、”私はね、完全に思いも、欲望もコントロールすることが出来るんですよ~”、と自分の思い、力を誇示するような態度でいたらどうでしょうか?
こういう心的態度は、全く真摯に神を求める在り方と異なるもので、むしろ神を遠ざけている道、ということを知らねばなりません。
そういう準備が全く出来ていないのです。神の道のその入口にも立つことが出来ていない、否、ハナっからその気が無い、と言わねばならないでしょう!...(完全催眠の分際で何が完全覚醒だ!)
あらゆる先入観、固定観念、予見となるものを排して、虚心坦懐な心持ちで望む...
いや、神という言葉が先入観になるかもしれませんが、”私そのもの”を意識してみるのもいいでしょう。
”私は私の体か?、思いか?、私は私だけで成り立っているのか?...それとも私を超えたものがあるのか?”...つまるところ同じ意識状態に導かれたりして?
この、思われた私を超えたような意識状態!...何も特別な神秘体験のようなものでなくても、真摯に、意識的に在ることで、それで何十年も待ち続けないとならないとか、意識的でない、脱線的な道を迷走する...なんてことは、私的には、絶対、ゼ~ッタイ的に、あり得ないことですよ!、考えられん!
少なくとも、それで何らかの安らぎ、幸福に与ることは出来るはずなのです。
もっとも、何かを得よう、獲得しようとするのでなしに、どこまでも虚心に、ということが大事なのです。
”真摯に神を待ち望む人間は、神の方が放っとかない”、と五井先生やラマナマハルシも言っているが...これは、けだし”実言”と言わねばなりません!
コメント (2)
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