人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神と人との交わり

2023-03-18 10:08:01 | 哲学・思想
私が”神的な現臨にある”、という時それは、一個なる私だけの単独の意識状態に無いことを言い表しています。
つまりそこでは、その神的なものとの何らかの交わりがある、ということなのです。
これはしばしば言うように、”私は私を超えたもの無しに存在出来ない、超越的なものと実存的なものは切り離すことは出来ない”、ということがこのことを如実に物語っているのです。
自己を超えた、不可知なものを認めない者からは、奇異に映ることかもしれませんが...
そして、真実に、リアルに神的なものを伝えようとするならば、それは常にかかる意識の元になされる、と言わねばなりません。
これを例えば、”神というのは、宇宙の法則、支配者であり、第?次元の存在で...”、というように、神を自分の客観に置いて、思い描いたように表現した場合、それは正に一個の私がそのように思椎したことを言っているにすぎず、そこに何らの交わりもなく、リアリティも感じることは出来ないのです。
このことは、”神認識”に関して、極めて根幹となるものにも関わらず、宗教でもスピでも案外意識されていないようです。だから極限すれば、神との交わりを欠いた言葉はすべて抽象観念と言ってもいいのです。
ユダヤ系の哲学者マルティン.ブーバーは、こうした神との関係を、”我と汝”という象徴語で言い表し、それが自己の思念に取り込まれ、交わりを欠いた状態を”それ”(英語の”IT“)と言って、神から“それる”ことを表していたのでした。
ベルジャーエフは、後者について“精神の客体化”と言い、その著書で必ずと言っていいほど、取り上げられていました。
ただ、不思議なことに、神と実存的に相まみえる、“我と汝”に当たる用語について、これといったものが見当たりません。
“ソボールノスチ“というロシア語の用語は随所に見られるのですが...これは我と汝の実存的交わりと切り離せないものには違いないのですが、我というよりも“我々”なるもの、我を含めた実存的共同体について表現されるものなのです。
しかし、ベルジャーエフのすべての哲学の根底にあるものこそは、“客体化”に対語的に言えば“主体化”...いや、これはどう考えても不適当でしょう!...もっとも根底的なものは、けっして”化“したりはしませんから!...単純に”神人の交わり”でいいのかな?...いや、“神人”の一語で凝縮される?...
いやいや、そんなことよりも、おそらくそれは、あまりにも自己に目の当たり、近すぎること、根底的でありすぎることだったので、象徴語でさえも言い表せなかったのかなあ、との感がよぎりました。
よく考えれば、この宗教、スピそして哲学...あらゆる精神的な道における、根本的な意識の在り方に関わる用語というものが無いというのは驚くばかりです。
おそらく、全く蔑ろにされているが、自分自身のことでありすぎることなのかどっちかなのでしょう?
コメント
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