人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本来から絶対的なもの

2023-03-25 10:11:00 | 求道、探究
ラマナ.マハルシは、“真我であることは、人の本性なのであり、自然な状態なのである”、としばしば述べています。
私はこの言葉にどれだけ恩恵を受けたことか!...自然に意識がそのようになってしまうのだから、これはもう絶対的なものがある、と言う他ありません!
といって、それは”ラマナの教えは絶対的だ!“、と言っている訳では勿論無いですよ!
私にも、他の一人一人にも絶対的なものが本来からあるのだから、それを受け入れ、表していけばいいんだ、ということですよ!
宗教、ことに一神教では、”神は絶対的である!“、と普通に言われ、信じられて来ました。
ここには、そういうことを説いている者が居て、信じ従う者が居る、という二元性があり、その言葉は、強固な相対性を表し、相克、不調和を生み出すものでしかありませんでした。
神の絶対性とは、一人一人の内面、実存に照らして明らかにされるものであったのです。
神は考える、信じる私を超えている、思いを超えているから絶対的なものなのです。
神は信じるものでなくて、信じざるを得ないもの、自然にそうならざるを得ないものなのです。
神と自己は一つのものとならざるを得ない!...”そうなる”ということは、そこにそうさせるものの、ある流入、ハタラキがある、ということです。
春ともなれば、枯れていた木にも芽が出て、葉が生え、花が咲く...そうさせるものによって、自然に!
我々は、時間的制約を受けて生きている者故、各々にその表出の時節というものはあれども、神的なハタラキの流入、本来の自己への目覚めの契機というものは必ずあると言っていいのです。
それは、自らの力を高めて行って、到達したり、新たに獲得するものでなく、本来からあるものなのです。
然るに、何故その真実性の不確かな、相対的な諸々の教え、方法(所詮は人がそう言っていること)などに迷わなければならないのでしょうか?
神の時、時節は待ち望まなければなりません。その音信が来るまでは!、来たら、流入があれば、回路が開かれれば、自然に、自動的となります。
何故待てないのだろうか?...私自身の本来性から来るものなのに...確実、絶対的なものなのに!...そして、あたら人生を無駄にしている、わけてもカルトに走るなんてこた、論外、周りにも有害なだけではないか!...
いや、かく言う私自身、もっともっと自分を高めて、成長させないと神の時は訪れない、神を待ち望み続けなければならない、という観念に囚われていました。まあ、それも時節待ちのことだったかもしれませんが...
しかし、本当に神の音信が来るまで待たなければならないのか?
私は確かに、それを感じながら待ち望んでいました。そう、ソコハカと感じる幸福感を!
それは、淡いものだったからか、意識的、自覚的でなかったのです。
僅かなものであっても、これを感じたなら、意識してみることです。
それが益々自覚的にハッキリ感じられることで、あれこれと迷わなくなります。
ラマナも言うように、幸福であることが真我であることで、それが我々の本来性なのです。
コメント (1)
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