宗教でもスピでも、道を歩む上で意識は主にどこに向けられるかと言えば、大体”自己なるもの”、本当の自分というものか、”神的なもの”、キリスト、如来などを含む、自己を超えたもの、ということになるでしょう。
それに対応した方法として、それぞれ瞑想、祈りというものが考えられている訳ですね。
私はしかし、そのやり方というよりも、もっとその根幹となるものとして、意識の在り方ということを重視しているのです。これが蔑ろにされたままだったら、やり方なんて言っても、ただやってるだけのことですよ!
だから私的には、”自己に、神に意識を向けていること”自体が瞑想であり、祈りと言っても過言ではないのです。
ラマナ.マハルシも、“私は誰か?”と真我を探求する道と、神への帰依の道を主たるその拠り所としていましたが、それは方法としてそれぞれジュニアーナ.ヨガやバクティ.ヨガがある、というよりも根本的には、その二つの意識の在り方を説いていたものと思われます。
私はご存じのように、主に神に意識を向けることに触れてきた訳で、それは自己に向けようとすると、すぐに自意識に囚われそうになり、それを超えたものなら自然に向いてしまうからだったのですが...
神に向けると、思われた私でない、私を超えた私そのものが顕わになる...又私そのものを意識することでも同様なことが!...もう、この二つは分けることが出来なくなってしまいました!...二つは一つのこと!
玉城康四郎先生の、”ブッダの原点に立ち帰ってみれば、禅(瞑想)も念仏(祈り)も切り離されるものでない”、という言葉が実に頷かされます。
この意識の二つで一つの道は、ラマナも言うように、直接的な道ということが出来るでしょう。
宗教やスピの世界で説かれる数多の諸説...”神、真我につながるには、各種のチャクラを開かなければならない”、”エーテル界やアストラル界などの幾つかの段階に応じた世界を通らなければならない”、といった、定かでないから諸説に分かれるような道とは、“直接“関わるものではありません!
この直接的な道は、数多ある道の中にあるものじゃないのです!
思われた私が居て、数多の方法や教えがあるのではありません!
私そのものとそれは切り離すことは出来ないのだから!...
これは、あの方法、この教えと違って全く定かなことではないか?
その道に触れた瞬間、幸福、安らぎが感じられるからに他なりません!
これが本当に実感され、意識に根付いたなら、定かでない、回り道、迷い道に迷うことはありません!
それが感じられずにどうして、道を歩むことなど出来るでしょうか?
それに対応した方法として、それぞれ瞑想、祈りというものが考えられている訳ですね。
私はしかし、そのやり方というよりも、もっとその根幹となるものとして、意識の在り方ということを重視しているのです。これが蔑ろにされたままだったら、やり方なんて言っても、ただやってるだけのことですよ!
だから私的には、”自己に、神に意識を向けていること”自体が瞑想であり、祈りと言っても過言ではないのです。
ラマナ.マハルシも、“私は誰か?”と真我を探求する道と、神への帰依の道を主たるその拠り所としていましたが、それは方法としてそれぞれジュニアーナ.ヨガやバクティ.ヨガがある、というよりも根本的には、その二つの意識の在り方を説いていたものと思われます。
私はご存じのように、主に神に意識を向けることに触れてきた訳で、それは自己に向けようとすると、すぐに自意識に囚われそうになり、それを超えたものなら自然に向いてしまうからだったのですが...
神に向けると、思われた私でない、私を超えた私そのものが顕わになる...又私そのものを意識することでも同様なことが!...もう、この二つは分けることが出来なくなってしまいました!...二つは一つのこと!
玉城康四郎先生の、”ブッダの原点に立ち帰ってみれば、禅(瞑想)も念仏(祈り)も切り離されるものでない”、という言葉が実に頷かされます。
この意識の二つで一つの道は、ラマナも言うように、直接的な道ということが出来るでしょう。
宗教やスピの世界で説かれる数多の諸説...”神、真我につながるには、各種のチャクラを開かなければならない”、”エーテル界やアストラル界などの幾つかの段階に応じた世界を通らなければならない”、といった、定かでないから諸説に分かれるような道とは、“直接“関わるものではありません!
この直接的な道は、数多ある道の中にあるものじゃないのです!
思われた私が居て、数多の方法や教えがあるのではありません!
私そのものとそれは切り離すことは出来ないのだから!...
これは、あの方法、この教えと違って全く定かなことではないか?
その道に触れた瞬間、幸福、安らぎが感じられるからに他なりません!
これが本当に実感され、意識に根付いたなら、定かでない、回り道、迷い道に迷うことはありません!
それが感じられずにどうして、道を歩むことなど出来るでしょうか?