人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神と人との交わり②

2023-03-19 09:31:26 | 哲学・思想
マルティン.ブーバーの神と人との関係を言い表す、”我と汝“という象徴語は、多く人間関係、人と人との交わりに適応されていたのでした。
ブーバー自身、「神は単独の”我“から生まれるのでなく、人と人との間に生まれるのである」と、その間、関係性(そのもっとも具体的なものは、人間関係に他ならない)に重きを置く言葉を残しているのです。
この点がベルジャーエフと異なるところで、彼は”如何に人間関係を有しない、形の上では孤独であり続ける者であっても、ソボールノスチ(人間の内なる霊的共同体)の実現を担っていることもあり得る”、という意味のことを述べているのです。
ブーバーに従えば、人間関係を通さなければ、神的な現臨に与ることは出来ない、ということになりそうです。彼はその”関係性”を誇張している帰来が伺えます。
ただ一つ言えることは、人と人との具体的な関係、間から立ち上るであろう神的現存は、単独の場にあって、得てして陥りがちになる、”主観的思念”の投影と区別されない曖昧さから回避され得る面がある、ということです。
こうした実存的問題は、一人一人の実存に即して明らかにされねばならないでしょう!
誰もあなたに代わってそのことを証してくれないのですよ!
人間存在は、いつもいつも誰かと関係し合って存在している訳じゃない!...”息が詰まるわ、そんなもん!、一人にさせてくれ!”
私は、あまり豊かな人間関係に恵まれなかったセイもあってか、孤独を愛している人間なのです。そりゃ、正直疎外感というものに苛まれたこともありますよ。
しかし、私に現臨感覚が芽生えてからというもの、全く孤独感というものを持ったことが無いのです。いつも言うように、私は、一個なる私のみからでは存在すら出来ないのです。
単独者のみの私というものは、幻想という他ありません。
ベルジャーエフの説くソボールノスチには、この原初的人間実存の在り様が伝わってきます。
つまりその霊的共同体とは、私という個があって、他なる個々と関わり合って形成されるものではなく、その個的な在り方自体がその表れに他ならないのです!
私はそこに一主観を全く超えたものを感じずにおれません。そしてこのことは思いを超えたものにあって、思念の限界が突破された時に明らかになるでしょう。
誰もあなたに代わって明らかにしてくれませんよ!...これは自明の理なのです!
おおっ!...それに与っているあなた!...あなたこそは、この理を私に代わって証してくれるはずだ!
えっ?
私は誰の、何の証をしているのだろう?
そ、それは...神と人との交わり!...
コメント
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