私は長い間、精神的な道において、取り分け神的なものとの一体化を目指す上では、ある種のエネルギー的なもの、気、バイブレーション、このブログでは”ハタラキ”と一括して呼んでいるものを受け、それを深く浸透させることが最も重要なことと思っていたのでした。
現臨と呼んでいるものには、この感覚(じんじんとしてくるもの)は必ずあるものなのですが、どうもそれは、このブログを始めてしばらくして、イコールのものとは言えないと感じるようになってきたのでした。
それはザックリ言って、神とそれはイコールではない、ことと同じような意味合いがあります。
私はここで、神的なもの、現臨にあることは、愛、安らぎ、リアリティに与ることと何度も言っています。しかし、そのエネルギー的なものを受けていることで、十全にそれらを感受されるとは必ずしも言えないのです。
その力学的なものを受けるだけで、本当に直に、目の当たりに、私の実存と一つに、あの御方とつながり、その至福に与ることが出来るだろうか?
”直に...”、とは私が居て、何かを受けるとか、二段構えのことでなく、”即”ということであり、全く自己自身と切り離されない、全人格的なことなのです。人格的なことだから、”あの御方”と神的なものを擬人化したような言葉を言い表さずにおれないのです!
この人格という言葉は、通常思われているような意味合いで使っているのではありません。
ベルジャーエフが随所で語っていたように、人間存在に後天的に形成されるものではなく、その原初的なものと関わるものでしょう。
だから、神に人格があるのかどうか、ということを問題にしているのでもありません。
抽象的な人格論なんかでは、けっして与り知れないことを言っているまでです。
他人行儀に、神、私自身を客観においたところにあの至福、リアリティなどどこにも見い出せるはずなど無いではないか?!
要するに、これは”我と汝”の世界であり、我と汝が直に真向かいになければ、そもそも愛というものが実感されることも無いでしょう。
このことは、このブログを通じてより神的な現臨に意識が向けられ、より深められたことと関係があるでしょう。よりそれは一如なものとなって来たのです。
といって、それは私がそのように努力したからでは断じてありません。
あの御方の方がより間近に臨んでこられたのです。
だから、どうやってそうなったか、という自覚があまりありません。
私の全人格は、私の思われた人格を全く超えているのでしょう...。
現臨と呼んでいるものには、この感覚(じんじんとしてくるもの)は必ずあるものなのですが、どうもそれは、このブログを始めてしばらくして、イコールのものとは言えないと感じるようになってきたのでした。
それはザックリ言って、神とそれはイコールではない、ことと同じような意味合いがあります。
私はここで、神的なもの、現臨にあることは、愛、安らぎ、リアリティに与ることと何度も言っています。しかし、そのエネルギー的なものを受けていることで、十全にそれらを感受されるとは必ずしも言えないのです。
その力学的なものを受けるだけで、本当に直に、目の当たりに、私の実存と一つに、あの御方とつながり、その至福に与ることが出来るだろうか?
”直に...”、とは私が居て、何かを受けるとか、二段構えのことでなく、”即”ということであり、全く自己自身と切り離されない、全人格的なことなのです。人格的なことだから、”あの御方”と神的なものを擬人化したような言葉を言い表さずにおれないのです!
この人格という言葉は、通常思われているような意味合いで使っているのではありません。
ベルジャーエフが随所で語っていたように、人間存在に後天的に形成されるものではなく、その原初的なものと関わるものでしょう。
だから、神に人格があるのかどうか、ということを問題にしているのでもありません。
抽象的な人格論なんかでは、けっして与り知れないことを言っているまでです。
他人行儀に、神、私自身を客観においたところにあの至福、リアリティなどどこにも見い出せるはずなど無いではないか?!
要するに、これは”我と汝”の世界であり、我と汝が直に真向かいになければ、そもそも愛というものが実感されることも無いでしょう。
このことは、このブログを通じてより神的な現臨に意識が向けられ、より深められたことと関係があるでしょう。よりそれは一如なものとなって来たのです。
といって、それは私がそのように努力したからでは断じてありません。
あの御方の方がより間近に臨んでこられたのです。
だから、どうやってそうなったか、という自覚があまりありません。
私の全人格は、私の思われた人格を全く超えているのでしょう...。