人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ベルジャーエフと私

2022-09-02 10:09:12 | 人生の教師
「真の人間性においてあらわれるものは、人間の性質ばかりでなく神自身でもある」
(ベルジャーエフ「神と人間の実存的弁証法」.著作集第六巻所収/白水社刊)

前々回、神と人間の関係について、思うところを書いてみたのですが、あまり意識してはいなかったのですが、どうもベルジャーエフの思想の根幹的な部分とつながる内容になってしまったようなのでした。
確かに超越者(神)と人間実存とのつながりに関する理解は、ベルジャーエフに負うところが大きいと言わねばなりません。
これはしかし、言い表そうにも言葉を持つことの出来なかった私に、言葉が肉化するようにもインスピレーションが与えられた、という感じを持っているのです。
真に、“超越することと実存することは切り離すことは出来ない“、ことを今もヒシヒシと感じながらこれを書いている次第なのです。
又、このことをアリアリと示されることに与った、その端緒がそもそもベルジャーエフの本を読んでいる中での、真の意味での啓蒙(自己の暗部に光が差し込み、照らされること)体験にあったのだから、とても深い縁というものを感じずにおれません。
では、私がこの読書界においてさほど認知されてないであろう、旧ロシア(今のウクライナ)の哲学者のことをどうして知ったのでしょうか?
彼自身が語っている、彼に影響を与えた思想家として、カント、マルクス(多く批判の対象にされているのであるが)、ドストエフスキー、二ーチェなどの名を挙げることが出来るでしょう。
いずれも、哲学思想に関心無くとも知らない人は居ないであろう、高名な思想家ばかりですが、私は彼を知るまで、その誰の本をも読んだことはありません。
否、哲学思想関係の本は、プラトンの「ソクラテスの弁明」を僅かにかじっただけで読んだことが無いのです。きっとこれに怪訝な、あるいは驚きの感情を持たれる方もおられるでしょう。何せ、小難しい屁理屈ばかり並べ立てる哲学なんてシロモノは、私の肌には合わなかったのです。
もう、タイトルを見ただけで偏頭痛が起こりそう...“あに~、「神と人間の実存的弁証法」だとお!“...ベルジャーエフ?、ハテ?、え!、訳者小池辰雄!、これかあ!、どれどれ...“
と、昭和54年秋、その池袋にあった大型書店でその本を見つけて、立ち読みしてみたのです。
“おっ、これは読めるぞ!、買っちゃえ!“
どうせ、買ったって読まないだろうとは思いながらも、小池先生所縁だし、思い切って求め、喫茶店で腰を落ち着けて読んでみました。
“うん、うん、やっぱりこれは読める!、何が書いてあるかサッパリ分からないが...“
と、何かぐいぐいと引き付けられるのを感じて読むともなし、眺めるともなしという時間を過ごしたことを今でも思い出します。
ところが、これに気を良くして他の哲学書をかじってみると...“あかん!、偏頭痛がして来て読めん!“
この違いはどこにあるかはハッキリわかります。論理的か、超論理的?(ベルジャーエフ)か、という文章スタイルの差も大きいですが、彼は思いを超えた世界に開かれた、ある意味“哲学者らしからぬ哲学者“だったということです。
それが、私が初めて本格的に取り組んだ哲学書、共感した哲学思想家だったという訳です。
上記した理由で、あまり多く哲学に接したことはありませんが、かくも私の実存を映し出す思想家には他に出会ったことがありません!...
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