人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

不思議なZENTAXI(その2)

2014-12-09 15:23:57 | 創作
人生にはいくつかの選択…いやこれっきゃないという選択の余地の無い道が有ります。
人はその道に全てを委ねなければなりません。
そして私は不思議なタクシーに全てを託し、35年前の私と対面することになったのです…。
ここは35年前の中央線沿いの都内の某所、彼~過去の私~のアパートに向かう途上、彼は何やら選択に迷ってる真っ最中のようです。
「ウーン…缶コーヒーなんだけど、ポッカとダイドーとどっちがいいかなア…」
―おお、この時分、飲料水の自販機が急増したなあ…そうねえ、私はボスってのが好きなんだけどね…
「エッ、そんな新商品が出回ってるんですか?知らなかったなあ…」
―おい、20メートル先にこの缶コーヒー問題を解決してくれそうな自販機の弁証法があるじゃないか!
「UCCか…」

そして六畳一間の彼のアパートに厄介になったのです。
―いやあ、しょぼい部屋、みじめなものだなあ…しかし、これが普通なんだよな、今のご時世。都営住宅みたいのは有っても、マンションなんざ殆ど無いじゃあないか!それにしても贅沢になったものだ…それで何が悲しくて死に急ぐ必要があるんだ、君を見習うべきじゃないかな。
「言ってる意味がよく分からないが、僕は貧乏なりに楽しくやってるよ。…そうだなあ、ここんとこ何だか理由は分からないけど楽しいよ!金は無い、恋人はいない、オヤジとモメたバッカシだし…それでもね、極端な話、突っ立ってるだけで楽しいことも有るよ。僕ってヘンかな?」
―…そりゃあ…ヘンだ(笑)…君は既に人生の裏側の住人なんだよ。いや生まれついての…と言うべきか?
「今年〈昭和54年)はもう暮れようとしてるけど、新年早々一寸変調をきたした事が有って、そこからどうもヘンなんです」
―何か、こう…ムクムクと気みたいのが満ちて来て、意識が高揚してくる感じかな?
「な、何で分かるんですか!驚いたなあ、オジサンって人は…」
―そりゃあ、君、私は人生の裏側の先住者なんだよ。分かるさ…そういう状態がずっと持続しているんだろ、全く大したもんだよ、君は!…これはだな、君の中で地殻活動が活発になっているのさ、富士山の爆発は近いかも知れない…今の君は揮発性に富んでるから何時そうなってもおかしくないよ。
「爆発ですって!それは聖霊のバプテスマか何かのことですか?」
―ああ、君は小池先生に触れていたんだよね…
「そうです、その出会いってのが不思議なんです。神田の古書街歩いてたら、何となくある書店に入りたくなり、何気なくある雑誌を取り,めくっていたら小池先生が寄稿してる文章が載ってたんです…。」
―そうしてあるスイッチが入ってしまったと…
「そう。どんな人でも聖霊の恩寵を受けられるんだと…もう一つ僕は既に又不思議な機縁であの日月神示に似た正体不明の、現在進行で出されている神示の冊子を取り寄せて読んでいたんです。それには人の内にある神の分霊というか、直霊、直日の御霊に目覚めよ!と畳みかけるように伝えているのです。
これもボルテージが上がりますねえ…」
―君の中のマグマが無けりゃ、そんな風には感じられないよ!
「だけど、その神示は、こないだそれを降ろしてる某教会にゴタゴタが起きたらしく、ストップしてしまいましたよ。」
―そこでは何かの霊学とか、秘儀のようなのも伝えられていたけど、その道はとん挫してしまったという訳だね…で、その小池先生の集会に行ってはみたが、バプテスマと言うのは無かったと…」
「そう、大丈夫なんだろうかっていう、警戒心が先に立ってしまったもので…こっちの方は今保留ってとこですかね…ただ小池先生の縁でこれ又別のものに出会わされた…」
―それがベルジャーエフ!
「そう、これ”神と人間の実存的弁証法”です。そうそう聞きたい事が有るんです、僕の生きてる百科事典のオジサン!」
―何だね、私の生きてるポッカコーヒーのような活火山の青年!
「ソボールノスチっていう、ベルジャーエフが言ってる精神的共同体とは彼の内面にあるもののことなんですか?それとも彼は何がしかの具体的なそのような共同体と関わっていたんですか?」
―それはだねえ…いずれ君が出会うであろう、もう一つの出会いと関係が有りそうだな…
「そう言えば、さっき言ってましたっけ、そんなこと…気になるなあ、なんですか、それは…」
―まあ、夜も長い、テレビでも見てそれからゆっくり語ろうじゃないか…
「ええ、いいですよ。今日は火曜日かあ…”探偵物語”をやってますよ」
―おお、松田優作(89年没)か…懐かしい…
「懐かしい?…僕は服部刑事の成田三樹夫(90年没)のファンなんです」
―二人とも惜しい俳優だった…
「エッ、死んじゃったんですかあ!聞いた事無いですよ、何かの間違いでしょ!」
―いや…その、勘違いだ…二人ともどっか不健康な顔してるだろ…だから、つい…

と、その時のことです。トントンと突然ドアをノックするものが…
「何ですか?」と彼がドアを開けるなり…驚きましたよ!二人連れの警官です!
「ドラッグの常習犯は君か!」と警官
―な、何ですって!何時私が危険ドラッグなんかを…
「ドラッグは皆危険に決まってるだろ!とにかく署に来てもらおうか!」
まるで服部刑事とヤマちゃん(山西道広)のように強引なやり方で、連行されそうになった刹那です!
突然現在に戻ってしまったのです…
何がどうなったのやら、サッパリ分かりません。
残された若き私の運命が気になる…ああ、こんな時選タクシーってのが有ればいいのに…

       続く

(参照過去記事「台風一過と地殻活動」「聖霊のバプテスマ」「三位一体」)





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呼吸の裏側

2014-12-08 15:26:07 | 祈りと瞑想
どこそこのパワースポットには神気が宿る、などとよく聞かれます。
まあ、古来から聖地とか言われている場所には、言葉では伝えられないような何かが感じられるようです。
この気というもの、波動とも言われていますね。
これはしばしば霊だとかと結び付けられて、特殊な、霊能的な人にしか感じられないもののように思われているフシが有ります。
私見では、絶対にそういう類のものでは無いですね。
それを感じられない人というのは、おそらく「そんなものは無い!」とか「特殊な人にしか分からないものなんだ」という固定観念が強いんじゃないか、と思われます。
気というものは、もう日常のあらゆるところで、ほとんどの人は何気なしに体感している筈です。
「森林浴は心地良い」とか「何だか薄暗くて気味が悪い」とか…
気には良い気とか悪い気、邪気が有るとか言いますが、気そのものは中立的なもので、それは気の満ちている、乏しくなっている、純度、流通性といった状態を意味してるんじゃないかと思います。
ちなみに我が国では「穢れ」というのは気枯れ、すなわち気が乏しく、弱まった状態を意味するとされています。
又我々自身にも、一人一人固有の気、波動があるらしく、誰それとは気が合うとか、合わないとか普通に言いますよね。
これだけでどんだけ「気」という字を入力したことか…
気というものは又生命と切り離せないもの、というより生命力そのものじゃないでしょうか。
インドではプラーナ、ギリシャからキリスト教の西欧ではプニューマと言われ、いずれも息や霊なるもの(これは心霊的な事とは違います)と関連付けられています。
仏教でいうダンマ~法と訳すと意味があまり伝わりませんが~も形なき命です。
そして瞑想における呼吸法の目指すところは、空気呼吸からこの霊なる生命力の接受にシフトすることにあると言われています。
私はほとんど呼吸法というものをやったことがないので、肺呼吸からその生命力が漲ってくる、という実感は無いのですが、いつの間にか次のような確信が芽生えました。
即ち我々は実は、肺呼吸の他に普段から無意識で、もう一つの知られざる呼吸をやっている…
この生命力を受け(入)、外部へ放出している。
肺呼吸と同じく、それ無しでは生きていけない程我々にとって無くてはならないものである。
それ(知られざる呼吸)は呼吸器官と言うより、全身(全霊?)で行われている。
それは自分の意志、力でコントロールする事は出来ない。
それは我々の意識と密接な関係が有り、意識が向いたところに焦点が行く。
(これは自分の意志で意識を一点に集中するという事とは根本的に違います。意識的になると自然にそうなるという事です。)
これは我々にはまだ解明されていない、言わば呼吸の裏側と言ってもいいでしょう。
イスラム教の祈りの形が有りますね。
アラビアの怪人ザ・シークがやってるような…(分からない人はスルーして下さい)
両手を大きく上げて…広がっていく感じ…
ググッと、上よりの力が加わって…縮まっていく感じ…
私にはあれがこの命のエネルギー交感が行われている様を表しているように思われてなりません。
中国の太極拳にも、身体を生命力の流れに任せている様子が出ている感じです。
いずれも最初にそういう型が有ったんじゃなくて、自然な、というか無為的な身体の動きが最初に有り、徐々に有為的な動作になったのではないでしょうか。
野口整体とかある種の気功法などは、そうした無為的な動きを意識的に取り入れたものと言えるでしょう。
ああいうものも又、超能力的なものと結び付けられがちです。
じゃ、アクビは何で自然と出るのか?不思議じゃないですか?
普段何気なく見過ごしていることの中にも、人生の裏側への出入り口があちこちに有るのです。
誰にも気付くことが出来ます。
意識的になることによって…。
(以前に書いた「意識というもの」の記事も読んでみて下さい)






  





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珍無類の瞑想法

2014-12-07 14:12:04 | 祈りと瞑想
こないだ風の便りで珍無類、この世にたった一つしか無いという瞑想法を伝授している人が居ると言うので会いに行きました。
その名はドクター・ザボー…待ち合わせの公園のベンチで座っていました。
―ドクター・ザボーさんコンニチワ…
「挨拶はいいからまあ、座り給え!」
―これは失礼立ったままで…座るのを忘れてました…今日は是非、貴方の推奨しておられるという珍無類の瞑想法について、ご教示いただきたく伺った次第です。
「珍無類の瞑想法? そんなものは知らないなあ…」
―いやあ、有る筈でしょう? 特殊な呼吸法とか、マントラとか…
「私はそういう類のものは一切身に着けたことは無いよ!」
―じゃあ、どういう技法を使っているのですか?
「技法?…何にも。…技法、やり方、どうやって瞑想して、どうやって悟るかって事だね、うっかりそんなものに頼っていたら、それに溺れてしまうのがオチじゃあないかね。確かに巷ではイロイロな瞑想法が有り、イロイロな効能書きが有るのを知ってるよ。まあ何でもいいよ…でも私は一生懸命、何十年も例えば呼吸法のやり方とか、座る姿勢だとかに拘り続けている人を知っている。彼らは言うなれば、修行のための修行、瞑想のための瞑想をし続けているように見えてならない…。ところでアンタは一体何だって私をたづねてきたんだっけ…」
―ええっと、ですね…自分でもよく分からないのですが、無性に惹かれるのです。こういう道に…何か抵抗し難いものが自分の中に有るみたいで…
「…楽しいかね?」
―ええ、そりゃあもう…
「そいつあ、いい!だったら私がアンタに何も教示の真似事をすることも有るまい! 君はこの道を歩むという事がどういう事か分かっているんだ…。人は腹が減ったら食堂へ行くだろう?食堂の前でどうやったらメシにありつけるか、飯を食う方法はなんてこと考え続けていたら、そのうち餓死しちまうだろう。君の中にどうしても、こうしてもそれに預かりたいという、そうせざるを得ない内なる要求というか内なる意志さえあれば、ほっといても君は然るべきところに導かれるだろう。」
―その内なる意志というのは誰にも有るんじゃあないですか?
「その通りだよ!だから生きている、とも言えるんだよ…」
―みんなその内なる意志というものが有るから一生懸命修行に勤しむんじゃないのですか?
「いいや、そうじゃない!何十年も修行のための修行をやり続けている人は「やらなくっちゃならない」からやってるんだ。嫌になったらやめればいいのに…内なる意志というものが分かってる人には、そもそも修行する必要など無いんだ。この内なる意志というものをそっちのけにして、やれこの方法とかあの方法などが有っても一体何になるだろうか!」
―同じように内なる意志を持っていても、恩恵に預かれる人とそうでない人が居るのは一体何が違うのでしょうか?
「恩恵に預かれない人は1時間も経たないうちに、他のことに心が奪われて自分の中にある物を忘れてしまう。縁ある人にもそういう事が有るが、彼の念頭には何時だってそれが有る。何の努力も無しに…見えざる導きを受けているためだ。もう一つ、恩恵に預かれない人の特徴はまさに、今自分に
はそれに預かるにふさわしい何かが欠落していると思い込んでいるのだ。だから修行へと駆り立てられ、その欠落を埋めようとし、何年先だか見当のつかない遠い先の到達される日を待ちわびる…。」
―お話をお聞きしまして、貴方の道というものがいわば道無き道だという事が何となく分かりました、でも何らかの何というか瞑想的意識状態に導かれる時間というのも有るのですよね。
「それだったら、もうとっくにそうなってる。…何時始まり、何時終わるというものでも無く、こちらの努力とか行為の問題でもないんだからね。この道の内実はそういうところには無くて、恩寵の光を待ち、それを受け入れるというところに有る。恩寵無くして新しいことは何も始まってこない!」
―どのくらい待つのでしょうか?
「本当のことを言えば、1分だって1秒だって待つ必要は無い!」
―ゲゲッ…どういう事なんだろ…
「意識が向いたらそうなる。…ま、勿論君が思っているように、なかなかそんな事にならないことも多いよ。でもね、それは神が10分、1時間待たないと、お預けのままと言う意味じゃない。一定の時間待たないとならないのはこちらの都合でしかないんだよ。イロイロ頭の中がごちゃごちゃしてるだろ。お分かりのように…神は何時だって恩恵を与えるのは「今」なんだよ。ここでも内なる意志さえハッキリあれば、受け取れることが出来る。
”まだ自分にはその時は来てない”なんて言う人には永久にそんな時は来ないかも知れないよ!…」
―私はもう、何だか話を聞いてると、ここがどこだか分かんなくなってきそうだ…
「座っているのも忘れるくらいだろ…」
―いや、全くですよ!ドクター・ザボー…巷ではイロイロな流儀の瞑想法があふれている中で、こりゃあ実にシンプルで特別な方法、条件などまるでない…何とも珍無類の瞑想法があったものだ…。





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過去に光を

2014-12-05 17:04:38 | スピリチュアル
いやあ、こうしてブログを書いてみて、つくづくSNSってのはスゴイなと思います。
超アナログ人間の私も兜を脱がざるを得ないですね。
パッと書こうとしたことが思い浮かび、こんな風に好き勝手な事書いて即発信…
実にライブな感じですね。
何やら書いてるうちにモヤモヤ立ち込めてきて、意識が変わりだし…なんてことになっててもライブ感覚で発信できる…
あなたの文章は脈絡がないのはその為ですかって?
いいえ、もともと私の頭が支離滅裂なためです(笑)

私は何かと問題の多い人間ですが、自分を本気で嫌いになったり、否定したことはありません。
ですので次の話はあまり私の理解が及ばない点もあります…。
自分が嫌い、嫌いな自分を変えたい、という人を何人か見てきました。
こういう人はなかなか幸福を感じる事が出来ないでしょうね。
嫌いだろうとなんだろうと、自分を受け入れないと寸時だって生きていく事は出来ません。
色々な判断を交えず、ただありのままの自分を受け入れるだけで、生かされているという実感が湧いてくるものです。
幸福感というものは、そんなところから来るんじゃないでしょうか。
もし、本当に今幸福なら今までの自分に対する観方は、違ったものに見えてくるはずです。
何故ならば、それまでの人生の軌跡というものがあったればこそ、今の幸福に巡り合える訳ですから…
あんなことも、こんなことも今の自分を育ててくれた種だったのです。
自分が好きになれない人は忌まわしい過去、忘れたい過去というものばかりに焦点がいってしまいがちです。
でも一度過去に光が当てられたなら、忘れていたはずの楽しかったこと、幸せだったことがふと蘇ってきたりします。
そして点のように散在しているように感じられたそれらの一つ一つが、全て今において一つにつながってしまうのです。
本当にリアルに何年も前のことが、現在のことのように生き生きと感じられてくるのです。
嫌いだった自分にも、可愛いな、と思える部分も発見できたりして…
抱きしめてあげたくなってくるでしょ?
過去の自分が居たからこそ、今の自分が有るのです。
この事をもっと掘り下げれば、我々の表側の人生の裏側でずっと生き通しているサムシングに気付くことも出来ます。
言うまでも無くこのものが過去に光を当て、永遠の今につなげてくれるのです。
もし、今までの人生が99パーセントミジメで無意味なものだったとしても、今このサムシングに気付くことが出来れば、その人生全てが今の至福につなげてくれたものとして受け入れる事が出来ます。
喩え、余命わずかであったとしても…

先日亡くなられた菅原文太さんは日々次のような心境で生きておられたと、夫人が語っていました

「朝(あした)に道を聞かば夕(ゆうべ)に死すとも可なり 」(論語)

「仁義なき戦い」のアンチヒーローは仁義に生きていたのでしょうか…





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サムシング・ハズ・カム

2014-12-04 17:19:32 | 祈りと瞑想
「知ってるつもり、分かってるつもり、頭デッカチばかりじゃしょうがない!」
こう向けられて、「じゃアンタはどうなんだ?」と言われたら…
そのお…返す言葉が有りません…。
ホントはみんな心の底では「そんな観念的なこっちゃダメだ」と思ってるんですよね?
言われなくても…つまり分かっているんでしょ?
私が時に辛辣なことを書いたりするのは、実は自分自身に向けられているということでもあるんです。
「何かの修行みたいなことを習慣的にいつも同じこと繰り返したってしょうがない!」みたいな発言もそうです。
これらは何か迷いが有るので振り切りたい、リセットしたいという私の内なる要求から発していたりするのです。
冬になったら着るものもそれに対応しないとなりませんしね。
まあ、外に向けたら己に帰ってくるという理も多少なりとも分かってるつもりです。
それでも、ヤッパシ言わなきゃなりません。
考えてる、思ってるだけでは分からないことが有ります!
サムシング・ハズ・カム
それは全く思いがけなく、予想外のところからやってきます。
晴天のヘキレキの様に…
一生懸命瞑想修行してもそれが起きるとは限りません。
意識を強めようとしても…多分逆効果でしょう。
私、分かってますから…
「意識を向ける」という言い方を私はよくしますけど、言葉では上手く伝わりません。
それは日常茶飯事、我々はそれこそ無意識みたいな感じでやってることですから…
何げなく意識を例えば神などに向けていると、思考と思考の間に隙間みたいのが顕れます。
そして突然モヤモヤッと霧が立ち込めてくる感じになります。
これは時間と空間がぼやけてくる状態の事を言っています。
これって特に瞑想してるって訳じゃ無いんですけど…
数日前、何げなく昔の自分に意識を向けていたら、そんなことになってしまいました。
そうなってみて改めて感じるんです。
「知ってるつもり、分かってるつもりだった!」なって…
これは私のリセットしたい、という内なる要求にそっと答えてくれたのでしょうか?
そうなったら今度は「この状態を持続したい」…
なんて思ったら要注意です!
多分持続しようという思いばっかし強くなるでしょう。
サムシングは捉えることが出来ません。
それは捉えられて分かるものです!
何も特別な体験の事ばかり言ってる訳じゃありません。
何だか有難い、幸せな気分になった…小さな幸福にも気付いてあげて下さい。
それを感じられる何か…サムシングが誰の中にも有ります。
それは我々の思いを超えたところで生き続けています。
持続しようなんて思わなくても…
ある時中に有ると思っていたものが、実は全てだったと気付かされます。
冬至が近づくと、何かが起こる気配もチラホラ…
サムシング・ハズ・カム
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