瞑想については私は多く語ることが出来ません。
もし、瞑想なるものが例えば何かに意識を集中することだったり、呼吸をコントロールするこ
とだったり、イメージで誘導されるものだったり…何らかの”やり方”を伴うものであるなら
ば、私にはほとんど縁も関わりも無かったからです。
それでも十数年前、瞑想指導者K先生の主催するリトリートにはよく行ってました。
ある時の集まりでは、あらゆる瞑想法のオンパレードという趣で、生まれて初めて長時間瞑想
に取り組みました。そのネライは確か”自分にふさわしい瞑想法を見つける”ことに有ったと
思います。それこそナーダ、イメージ、ヤントラ、マントラ…瞑想者ならおなじみのものを次
々、一生懸命”やり方”を覚えてやってみたものの…どれもこれも私には難行苦行でした…
僅かに合いそうだったのはマントラ(オームとか…)ぐらいでしたが、何が大変て、意識の集中が全く出来ません。強いてやろうとすると、偏頭痛が起こって益々実習が困難になります。
そこで、私はK先生に訴えました。「私にはどの瞑想も向かないようです(もう、帰りたい)」と…すると先生はすかさず「あなたは元波動瞑想をやったらいいです!」と言いました。”んもー先生!…最初から言ってよー…”
私はその瞬間水を得た魚のように、生き返った気がしたものです。
元波動瞑想とは聞きなれないでしょうが、このやり方というのは有って無いようなものです。
K先生も言ってるように、もっともシンプルな瞑想法?だと思います。
要するに元波動だか、ある種の形なきエネルギー的なものに任せるだけなのです。
これはしかし私には、先生から教わる以前から馴染みが有りました。
どこで覚えたのか、身に付いたのか…ある時、自然と自意識を超えて立ち上がってくる、喜ばしき”感じ”に委ねていたら所謂瞑想的意識状態というか、自分と周りの隔たりが無くなってしまったのです。
それは人為的、有為的なもの、自意識的なもの以前の、無為的、自然発生的なものにのっとる
もので、正しく人生の裏側に即した”方法なき瞑想法”なのです。
ドクター・ザボーが何時もやっているのがこれです。
人為的なものでないので何時始まり、何時終わるのか明確ではありません。何かが立ち上り、
自然と治まるまでというのが目安です。といっても自意識で止めようと思ったら止められます。決して何物かに操られる訳ではありませんので…
又時にそれは無為的な自動的身体運動を伴う事も有るのです。
これを立ったままやってたら、飛んだり、跳ねたり大変なことになる…ラティハン(スブド)、活元(野口整体)…霊動法などと呼ばれたりしますが…呼び方は自由ですが、おそらく”創始者”は誰も居ないでしょう!(面白がって勝手にやったり~もっともやり方は無いのですが~人前でやったりしてはいけません!)
表側?の瞑想法しか知らない方には、奇異に感じられるかもわかりませんが、伝統的宗教の裏側には常に存在していたと思われます。
瞑想やヨガとくれば、誰もがインドを思い浮かべるのでしょうが、それが知られる以前はこういうものが存在していたものと想像します。
老子などのタオの思想など、正しく無為の道であり、こうしたもの抜きでは考えられません。
これから埋もれていたものが段々表に顕れるにつれ、こうした瞑想?も復権してくるのではないでしょうか…。
大道廃れて仁義あり(老子道徳経)
坐忘廃れて難行あり(ドクター・ザボー)
もし、瞑想なるものが例えば何かに意識を集中することだったり、呼吸をコントロールするこ
とだったり、イメージで誘導されるものだったり…何らかの”やり方”を伴うものであるなら
ば、私にはほとんど縁も関わりも無かったからです。
それでも十数年前、瞑想指導者K先生の主催するリトリートにはよく行ってました。
ある時の集まりでは、あらゆる瞑想法のオンパレードという趣で、生まれて初めて長時間瞑想
に取り組みました。そのネライは確か”自分にふさわしい瞑想法を見つける”ことに有ったと
思います。それこそナーダ、イメージ、ヤントラ、マントラ…瞑想者ならおなじみのものを次
々、一生懸命”やり方”を覚えてやってみたものの…どれもこれも私には難行苦行でした…
僅かに合いそうだったのはマントラ(オームとか…)ぐらいでしたが、何が大変て、意識の集中が全く出来ません。強いてやろうとすると、偏頭痛が起こって益々実習が困難になります。
そこで、私はK先生に訴えました。「私にはどの瞑想も向かないようです(もう、帰りたい)」と…すると先生はすかさず「あなたは元波動瞑想をやったらいいです!」と言いました。”んもー先生!…最初から言ってよー…”
私はその瞬間水を得た魚のように、生き返った気がしたものです。
元波動瞑想とは聞きなれないでしょうが、このやり方というのは有って無いようなものです。
K先生も言ってるように、もっともシンプルな瞑想法?だと思います。
要するに元波動だか、ある種の形なきエネルギー的なものに任せるだけなのです。
これはしかし私には、先生から教わる以前から馴染みが有りました。
どこで覚えたのか、身に付いたのか…ある時、自然と自意識を超えて立ち上がってくる、喜ばしき”感じ”に委ねていたら所謂瞑想的意識状態というか、自分と周りの隔たりが無くなってしまったのです。
それは人為的、有為的なもの、自意識的なもの以前の、無為的、自然発生的なものにのっとる
もので、正しく人生の裏側に即した”方法なき瞑想法”なのです。
ドクター・ザボーが何時もやっているのがこれです。
人為的なものでないので何時始まり、何時終わるのか明確ではありません。何かが立ち上り、
自然と治まるまでというのが目安です。といっても自意識で止めようと思ったら止められます。決して何物かに操られる訳ではありませんので…
又時にそれは無為的な自動的身体運動を伴う事も有るのです。
これを立ったままやってたら、飛んだり、跳ねたり大変なことになる…ラティハン(スブド)、活元(野口整体)…霊動法などと呼ばれたりしますが…呼び方は自由ですが、おそらく”創始者”は誰も居ないでしょう!(面白がって勝手にやったり~もっともやり方は無いのですが~人前でやったりしてはいけません!)
表側?の瞑想法しか知らない方には、奇異に感じられるかもわかりませんが、伝統的宗教の裏側には常に存在していたと思われます。
瞑想やヨガとくれば、誰もがインドを思い浮かべるのでしょうが、それが知られる以前はこういうものが存在していたものと想像します。
老子などのタオの思想など、正しく無為の道であり、こうしたもの抜きでは考えられません。
これから埋もれていたものが段々表に顕れるにつれ、こうした瞑想?も復権してくるのではないでしょうか…。
大道廃れて仁義あり(老子道徳経)
坐忘廃れて難行あり(ドクター・ザボー)