人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

書かにゃおれないこと

2015-05-23 00:04:21 | 祈りと瞑想

いやあ、ここんとこ仕事がヒマという事も有ってか、祈り心地というか、瞑想心地というか…私にとってこれは別々の事じゃないのですけども…そんな気分に誘われることが多いです。
これは何も瞑想しようとか、祈ろうと思ってるからそうなるんじゃありません。
誘わしてくれるものが有るからそうなるんです。 これはこうしたことに限らず、生きるという上での大前提ではありませんか?
つまりそういうものに生かされて生きている、ということです。
人生にはこういう裏側が有る…と、続けてたら書くことが無くなりますが、書かにゃおれないものが有るから性懲りも無く書いてるまでです。
祈り心地というものは、この大いなるものとの繋がりからどうしたって芽生えてくるものです。
どういう言葉、マントラを使うとかいった形のことではありません。 そして又意識はどうしたって内側へと向けられて行きます。自然と瞑想心地になります。 (私にはこの二つが分けて語られる、というのが不思議でしょうがないです)
これはまた時に覚醒とか悟りといったものに結び付けられています。
そこを目差して一生懸命修行に励んでおられる方もおられることでしょう。
勿論、それをしたからといってそうなるって保障などどこにもありません。
それ以外の場面であっても、そうした契機は無数にあります。
一つ言える事は、意識がそっちに向いていたらその契機は生まれやすいであろう、ということです。
 瞑想修行などそれ自体が、その事と結びつかずともその契機が作られるという事だと思います。
この”意識を向ける”と言うのが、秘伝中の秘伝なんです! ホントは向けるというより、向いちゃう、と言うのが正しいのです。
そして、そうしようとしなくたってそうなってしまう…そうなると別に形としての瞑想も祈りもやる必要がありません。
これはちょっと人には伝えられません。(伝えられるんだったら伝えてもいいですよ。タダとは言いませんが…)
その一番の理由は私がどうしてそうなったか分からないからです。
このことにアグラをかいて私は「なーに、覚醒なんてその気になったら何時だって出来らあ…」なんて実に罰当たりな事を思った事が有りました。
これは言うまでも無くとてもズレた考え方です。 そして、当然の如くあのジンジンが消えました。
いや、消えたことすら分かりませんでした。年のせいだと思ってました。
”目覚めというものを通して開かれるものが有る”この大前提無くして、何にも起こる道理など無いのです。
じゃ結局修行したってしょうがない? いいや修行向きの人はどうしたって修行に赴くでしょう。
祈る人はどうしたって祈らざるを得ないでしょう。そうさせて止まないものが有るからです。
”悟りたい、覚醒したい”こう望むのは自我かもわかりません。
でも、そう望まざるを得ないものがあったら、どうあってもこうあってもそっちに赴くしかありません。
”修行しなければならない” ”修行なんてする必要ない” こういう決めつけた物言いというものは”大きなお世話”以外の何物でもありません。

何だか最近同じような事ばかり書いてる気もしますが、書かにゃおれないものが有るので…
人間には道理だけじゃ生きられない道理が有る…どおりでオカシクも楽しいじゃありませんか…。


コメント
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