人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

”が” から ”に”へ

2015-05-11 00:06:42 | 求道、探究
G.Wも終わり、我々は又飽きもせず、毎日の糧のため終わりなき日常に埋没するわけですね?…
”朝っぱら上司からガミガミ…顧客からはクレームの電話が殺到…ああ、もうやってられまへんわ!いや、ダメダメ日ごろの探究は何だったのか! ことはただ起こっているだけ、イラついている私個人何て居ないんだった…し、しかし何とか自分に言い聞かせようとしても、どうもならんじゃないの!ああ、もうスピ系なんかやーめた! アホクサ!”(まあ、このように自分と気付きというものが二つになってしまうのが世の常なんですが…)
ある、ある…勿論私にも…
非二元論者が何と言おうと、我々は二元性からは逃れられない!これが現実じゃないですか?
究極の真理と思しき分離的思考の彼方の世界と、これでもかこれでもかと問題だらけの現実世界との二元世界…。
常識を持った人なら分かり切ったことでしょうが、この二元性を混同したら、多分あなたは混乱した人になるでしょう。
”混乱している”と自覚出来たらいいのですが…
もし、ワケ分かんなくなってしまった時、助けになるのは何かといったら、日ごろウザく感じているこの常識の世界です。
私はつくづく思います。”この現実に存在しているもので否定されるものは何一つ無いんだ”と…勿論いつも宗教とかスピ系で悪者にされてる自我とか思考とかも、です。
むしろ問題の種は、このように否定すべくもないものを否定したり、一元とか二元とか分けられないものを”どっちかでなければならない”ものにしたり、どっちが上だとか下だとか判断したりする事にあると思います。
”オカシクなっちまった”と感じたら理想的な統合的意識でなく、当たり前の分別心というものに訴えるべきなんです。
それがあなたにとってその時の救世主です。
もう少しスピ系的になると、それが自我だろうと真我だろうと”自分はここにいる”という感覚です。
瞑想指導者のK先生は瞑想に関した内面的な話をする際 ”これはあくまで内面の道を歩む上での話です”とこの二元性の混同に留意されていました。
そもそもこうした混同、混乱は何故起きるのでしょうか?
自分というものを起点にして何かを捉えようとしたり、分かろうとしたり、信じようとしたりするからではないでしょうか…
小難しいことのようですが、何か喜ばしいものが突然立ち上がってきた時、それに意識が向かう先にそのものがすでに来ているのです!
要はそれを捉えようとか、分かろうとするのではなく、それが自ずから顕れ出ようとするのに任せればいいだけなのです。
つまり自分でなく、自分なのです。
(私はなるべく例えば覚醒体験などについて”覚醒する”でなく、”覚醒に預かる”という表現を使うのはこのことによります)
そうなれば、ああ、分かっちゃいるのに(ホントは何も分かっちゃいない)何でこうなるのか”という煩悶も無くなるのではないでしょうか。
霊的な進化とか成長とか言ったって、現世で生きてる我々はどの道死んでハイ…です。
自分がどのレベルだとか、そんなことチッポケな自分の分際で分かる訳ないじゃありませんか!
又、ある先生やマスターがどのレベルだとか言ってる向きもあります。
多分そう言う人にとってマスターという存在はオカルト・グッズに等しい、遊び道具みたいなものなのでしょう…
その信奉するマスターがどんなに深みに達していようと、その人は自分に弄ばれるだけでしょう…
自分の中の真の主体は対象には決して上ってきません!
それが上がってきた時、自分も対象も消えます。否定だとかどっちかという判断無しに…
そして、”ああ、何一つ否定されるものも無く、判断も無い…有難いが有るだけなんだ”と感じられて来ます。
捉えようとか、分かろうとかいった自意識的なものと違って、感じることは無条件です。
それは例えば、職場のクソ面白くない場面だろうと感じられます。
自分でなしに、自分



コメント
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