人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

今日流行のノンデュアリティにあらず

2015-05-27 21:20:18 | スピリチュアル?
我が国のキリスト教の教派として分類されているものには、カソリック、プロテスタントなどとならび、無教会派と認知されているグループが有ります。
明治時代、初めてこの無教会という事を説き出したのは内村鑑三先生でしたが、今日ある無教会集会の在り方を作ったのは、その弟子塚本虎二先生だったとも言われています。
この無教会なるもの…聖書、福音には惹かれるものの教会という制度などになじめない、理由あって教会に行けない人たちのために、内村先生が説き出したのですが、何時しか既存教会の対抗勢力のように”無教会主義”というものが台頭し始めたのです。
この動向に対して内村先生は「私の無教会主義は主義のための主義ではなかった」と弁解し、さらには「私は今日流行の無教会主義にあらず」と述べるに至ります。
確かに形なき、内的なものを重視したはずの無教会に主義とか派閥があっちゃおかしいことです。
これに共鳴した者たちは、カトだのプロだの相対的なことに煩わされたくない求道者たちだったはずです。
そして今日スピ系でにわかに流行の兆しを見せているのがノンデュアリティと言われる生き方です。
私自身もこの道に関心を寄せていた時期がありました。今でもそのある観方には共感できるところもあります。
ただ、率直にこの現象に対して感ずるのは「こんなはずじゃなかったんだがなあ!」というものです。
何かまるであたかもノンデュアリティ教という新手の宗教が台頭し出したかのようです。
勿論人が何を説き、何に従い、信じようと自由な訳ですが、ついつい私が呟きたくなるのは、前述したように傾倒した部分が有ったからだと思います。
私がこのブログを立ち上げた時には、どっかでこの非二元的な事を書いてみようという気持ちもありました。
ところがそうした記事、書物などに接しているうち、私が共感を抱いていた部分とズレてきているな…と感じ始めたのです。
それには色々と述べなければならないことも有りますが、まず違和感を覚えたことは、この非二元的観方というものが、あたかも独立した一つの主義、教派のようなものとして表れ始めた、ということなのでした。
非二元云々というものの本来の意義は、あらゆる相対的二元を超えた視点を示す、というところに有ると思うのですが、これでは新たに非二元的相対観が生まれたという感がします。
又本来彼らが書物、ネットなどで発信しているような一連の気づきの言葉(言うまでもなくそこには私が頷ける点、頷けない点というものはどうしたって有ります)というものは、ごく内的な直接経験から語られるべき種類のものだと思われるのですが、これが何とも容易くネットなどに拡散され、一体どれだけの人がそれを理解したかは知る由も無いですが、これまた容易く受け入れられてしまうようです。
ここにも別の意味で”何かの教えを信じる”という二元的有り様を感じてしまうのです。
勿論、それで本当に心が満たされ、目覚めの契機に至るのでしたら余計な茶々を入れているというだけかも知れませんけど…
それにしても何時も訝しく感じてしまうのは、彼らの言い回しというものは”個人など居ないのです…みんな元々悟っているんです…起きる事が起きてるだけです…”といったように何で又似たり寄ったり何だろう…と思うのは私だけなんでしょうか?
そこにある種のドグマ性の芽生えのようなものを感じてしまうのですが…
あくまで個人的な感想ですが、これが全くつまりません!(勿論つまる、つまらないで世の中成り立ってませんが)
純粋な直接経験に基づく表現というのはみなあんな風になってしまうのでしょうか?
”個人など元々存在しない”から没個性的な表現になるのでしょうか?
ただ彼らのその気づきに至るまでのそれぞれの人生模様などを語っているところは面白いです。大変個性的で…
そして又彼らがそのエンライトメントに預かった時の表現…そこに私は”一なるもの”の顕れというものを観ます。
つまり”一なるもの”とは人間自身が語るものでなく、そのものが人間を通して語るものなのではないでしょうか?
人間が語り始めた時、どうしても二元的なものにならざるを得なくなってしまうのではないか?どうもこの辺りに私のモヤモヤ感が存していて、要らんこと書いてしまったようです。
でもそれは仕方ないことでしょうね…お互い人間なんだから…。




コメント
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