人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

気付きと明け渡し

2015-05-20 22:00:06 | 祈りと瞑想
先日の瞑想会で、プレゼンス(気付き)やハートに関連したことに話が及んだ時、私が「自分は昔から感受性が強いほうですが、この事とハートとつながりが有るんですかねえ?」とか話してたら、Mさんは「自分はどんなに感情が揺れ動く事が有っても、どこか常に意識はこっち側に保たれているところが有る」とプレゼンスというものがどのようなものか、何となく腑に落ちそうな話をしてくれました。
家に帰ってこの事についてしばし考えていたら”ああ、私もそうだった”と改めて感じました。
色々エモーションが立ち上って来ても、どっかでそれを味わってる覚めた自分が居るんです! 
中学3年の時、初めてロックコンサート(レッドツエッペリン初来日!)に行きましたが、他の級友は皆手をたたいて”胸いっぱいの愛”を表してノリノリだったのに対し私だけ、”移民”のようにその熱狂に溶け込めず、仲間外れにされた気分でした。
ご多聞にもれず、私もロックの洗礼を受けていた(51年来のラテン音楽ファン? んなわけないでしょう…シタテール・ラモスじゃあるまいし)のですが、ここで私はハードロックには向かない、と悟った次第です…。
聖霊を協調するキリスト教の集会では時に、集団エクスタシーのような熱狂的祈りに発展することが有るのですが、私自身がその渦に溶け込んで、”ハレルヤ”になってしまったことは一度も無かったと言っていいです。
ただ生来のへそ曲がりというか、周りが全く日常的境界が超えられることなく、シーンと静まり返った集まりの中で、あの上よりの恩寵の力が現臨して一人泣きながら悦に入ってしまう事はありました。そしてこの時ばかりは”もう、降参!”自分を明け渡ししてしまいます。
そうなのです! 考えてみれば私は本当には見えざる導きにしか心を許したことがないのです。
これが有るキリスト教の一教派の集会で起きた時、私が未信者のままだったためか、既信者から「信者になろうと決心したようですね?」などと勘違いされてしまいました。それはあくまで見えざる導師との超宗派的交わりなのです。
それが証拠に全く別の集会でも同じような事が起きた事が有ります。
これはこの世もあの世も天国も地獄も…全て”導師にお任せ”してるからそうなるまでなのです。
これとは少し異なりますが、瞑想してたら体が勝手に動き出した…体動が起きた、などと言ってケッタイに思われるでしょうけど、誤解しないで欲しいですが、それは何か自分と違う何者かによって操られることとか、トランス状態とは根本的に違う事なのです。
普段の自分を超えたところから来るというのは確かなのですが、”自分はここに在る”という感覚はキープされているものなのです。
これが無く、自分が操られたり、失ったりしまうような場合は危険な状態と言わざるを得ません。(決して一人ではやらないでください)
意識を心持下半身に向けるとか、飛んで行かないようにした方がいいです。
どちらの場合でも私自身、そんなことになってしまったという事は一度もありません。
それは、”自分が自分でない”感じにはなっていても、そこに表面的な自分の奥にある、そのものが有って自分があるという…”自己の大本”が顕れているのを示されるからだと思います。
アジス・クリストフ、(特に)フーマンはガイダンスとつながるという事の重要さを述べていますが、見えない導きは我々が何が必要なのか一番分かっているんじゃないでしょうか?
頭にも身体にも感情にも偏らず、バランスを保つにはガイダンスとの関係を密にしていく事だと思います。
そしてそれは自己の大本の自己開示につながるのでしょう…。




コメント
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