規格外の霊的修練を伝えるS会には、どこに導かれるのか分からない危険なムードが沢山ありました…。
でも誤解されないようにこれだけは言っておきます。
以前その会についてとんでもない歪曲した記事を観た事が有りましたが、そこは私が考えるような所謂洗脳カルト集団、邪教集団の範疇には入らない、ということです。(今はどうか知りませんが…)
何よりそこを辞めた後もこうして何事も無く、過ごしていられる訳ですから…
ただ、その修練は強烈なバイブレーションにより、理性が飲み込まれてしまうようなところがあり、実修に当たっては慎重にもっと望んだ方がいいと感じたのです。
おまけにエゴを助長しかねない、魂の段階的進化論のようなのが信仰?されているのですから…
K先生が推奨している元波動瞑想は”ただ受け入れる、全てを委ねるだけ”という点でこの修練と通底するところがあり、時に同じように自然発生的な体動に移行してしまう事も有るのですが、心身のバランス面を考慮するとより安全だと思いました。(ただS会の修練は危険な分、容易に思考から離れることは出来ます、しかしその反面体動の方に意識が向かってしまい、その瞑想のように内面に意識が向くことはあまりありません)
私が知っているものでは、広い意味で小池先生、手島先生の原始福音集会もある意味~宗教的なものの裏側にあるという意味で裏の修練と仮に表現します~この道につながるものと言えます。
(キリスト教ではマイスター・エックハルトや十字架のサン・フアンに代表される、神秘主義の系譜が知られており、これもその流れに通うものが有ると思われますが、私は直接関わったことないのでよく分かりません。)
手島先生は祈りと瞑想に関する手引きをいくつか書かれており、信者の間でそうした集会もよく為されていたようです。
小池先生は何より特筆されるべきは、聖霊を受けるという事態には十字架と切り離してはならない、ということを強調されていたことです。
十字架とは自我性を突破させ、全託に向かわせるという聖霊それ自身の力と私は理解しています。
このようにこうした集会では聖書などに触れることにより、霊的な感性が滋養されるという利点があります。ただ裏を返せば、それがあまり知的、感情的理解というものに偏り始めると直接経験的なものから二義的なものに代わってしまう、という傾向も無きにしも非ず、と思われますが…
私は小池先生の集会に初めて行った時は、周りが敬虔そうな人ばっかりで、”場違いなところへ来てしまったなあ”と思ったものですが、S会に行った時はそんな人は誰一人見ませんでした。(笑)
そして、そうした集会でよく聞かされる聖霊を受ける事に伴う所謂”回心”(ある種の覚醒体験)というものはほとんど聞かれませんでした。
(二人ほど聞いたことはあります)
野口整体の活元運動に代表される健康法、中国古来から伝わる気功法などにも自然発生的な体動に発展する運動が見られます。
それらは元々意識は身体的な方面に向けられているので、精神面でバランスが狂うという心配が無いだけ、健全なものだと思います。
とにかく神とか霊とかについてはほとんど語られることが無いということは、日ごろ精神世界にまつわる我々の意識がリアリティから遊離してしまう、アレコレの情報に振り回されなくなるということで、どれだけ精神的健全さが保たれることでしょうか!
当然のことながら、ここでも違う意味で霊的な目覚めについてはほとんど聞かれません。
ウーン…私は前世だとかオカルト進化論だとか、想念が現実から遊離しない範囲で精神的な滋養がもたらされてもいいと思うのですが…
心身一如と言う観点でも…
わが国には古神道に伝わる鎮魂法ミタマフリというのもありますが、私は関わった事が無いので、ここではパス…
このように概観してみると裏の修練には、各々類似性も認められますが、有り様、方向性も違う所もあります。
これは取りも直さず、そこに関わっている人たちの意識の有り様、方向性に応じているという事が言えると思います。
形なき命プネウマと意識の微妙な相関関係ですね。
ただ、これを書く前に感じたことですが、純粋にこの思いを超えた波動が私の心身に浸透した時、そこには全くどんな先入観念も、どんな流派も信仰も無く、一つのものが立ち上がっていた…それは全く私個人に帰されるものでなく、大本から来るものだ…ということです。
こういうのはOO法などと、とってつけた名称は要らないと思います。
そのうち一人一人に還元されるでしょうから…
でも誤解されないようにこれだけは言っておきます。
以前その会についてとんでもない歪曲した記事を観た事が有りましたが、そこは私が考えるような所謂洗脳カルト集団、邪教集団の範疇には入らない、ということです。(今はどうか知りませんが…)
何よりそこを辞めた後もこうして何事も無く、過ごしていられる訳ですから…
ただ、その修練は強烈なバイブレーションにより、理性が飲み込まれてしまうようなところがあり、実修に当たっては慎重にもっと望んだ方がいいと感じたのです。
おまけにエゴを助長しかねない、魂の段階的進化論のようなのが信仰?されているのですから…
K先生が推奨している元波動瞑想は”ただ受け入れる、全てを委ねるだけ”という点でこの修練と通底するところがあり、時に同じように自然発生的な体動に移行してしまう事も有るのですが、心身のバランス面を考慮するとより安全だと思いました。(ただS会の修練は危険な分、容易に思考から離れることは出来ます、しかしその反面体動の方に意識が向かってしまい、その瞑想のように内面に意識が向くことはあまりありません)
私が知っているものでは、広い意味で小池先生、手島先生の原始福音集会もある意味~宗教的なものの裏側にあるという意味で裏の修練と仮に表現します~この道につながるものと言えます。
(キリスト教ではマイスター・エックハルトや十字架のサン・フアンに代表される、神秘主義の系譜が知られており、これもその流れに通うものが有ると思われますが、私は直接関わったことないのでよく分かりません。)
手島先生は祈りと瞑想に関する手引きをいくつか書かれており、信者の間でそうした集会もよく為されていたようです。
小池先生は何より特筆されるべきは、聖霊を受けるという事態には十字架と切り離してはならない、ということを強調されていたことです。
十字架とは自我性を突破させ、全託に向かわせるという聖霊それ自身の力と私は理解しています。
このようにこうした集会では聖書などに触れることにより、霊的な感性が滋養されるという利点があります。ただ裏を返せば、それがあまり知的、感情的理解というものに偏り始めると直接経験的なものから二義的なものに代わってしまう、という傾向も無きにしも非ず、と思われますが…
私は小池先生の集会に初めて行った時は、周りが敬虔そうな人ばっかりで、”場違いなところへ来てしまったなあ”と思ったものですが、S会に行った時はそんな人は誰一人見ませんでした。(笑)
そして、そうした集会でよく聞かされる聖霊を受ける事に伴う所謂”回心”(ある種の覚醒体験)というものはほとんど聞かれませんでした。
(二人ほど聞いたことはあります)
野口整体の活元運動に代表される健康法、中国古来から伝わる気功法などにも自然発生的な体動に発展する運動が見られます。
それらは元々意識は身体的な方面に向けられているので、精神面でバランスが狂うという心配が無いだけ、健全なものだと思います。
とにかく神とか霊とかについてはほとんど語られることが無いということは、日ごろ精神世界にまつわる我々の意識がリアリティから遊離してしまう、アレコレの情報に振り回されなくなるということで、どれだけ精神的健全さが保たれることでしょうか!
当然のことながら、ここでも違う意味で霊的な目覚めについてはほとんど聞かれません。
ウーン…私は前世だとかオカルト進化論だとか、想念が現実から遊離しない範囲で精神的な滋養がもたらされてもいいと思うのですが…
心身一如と言う観点でも…
わが国には古神道に伝わる鎮魂法ミタマフリというのもありますが、私は関わった事が無いので、ここではパス…
このように概観してみると裏の修練には、各々類似性も認められますが、有り様、方向性も違う所もあります。
これは取りも直さず、そこに関わっている人たちの意識の有り様、方向性に応じているという事が言えると思います。
形なき命プネウマと意識の微妙な相関関係ですね。
ただ、これを書く前に感じたことですが、純粋にこの思いを超えた波動が私の心身に浸透した時、そこには全くどんな先入観念も、どんな流派も信仰も無く、一つのものが立ち上がっていた…それは全く私個人に帰されるものでなく、大本から来るものだ…ということです。
こういうのはOO法などと、とってつけた名称は要らないと思います。
そのうち一人一人に還元されるでしょうから…