人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

恩寵に導かれた瞑想会

2015-05-17 19:15:43 | 祈りと瞑想
この連休に入った頃から、自由な時間が持てるようになったためか、自然に瞑想心地?、祈り心地?になりやすくなりました。
そんな時、あるブログを通じて瞑想会があるのを知りました。
これが奇遇な事に、その会の場所を知った日、仕事でそのすぐ近くに来ていたのでした。
期日が迫っていたので、もう締切りかな、と思ったのですが、とんとん拍子に決まってしまい昨日行ってきました。
その瞑想は前から一度は触れてみたいと思っていた、アジス・クリストフ~フーマンの系統のものです。
約三時間もみっちり瞑想したのは凡そ18年ぶりくらいでしょうか、さすがに体力の衰えを感じたことはあったものの、テクニカルなものは抑えられ、くつろぎ、デマカセ?(出るに任せるの意)など、自然の流れにそったプログラムが私には良かったと思いました。
まず、本で読んだだけで漠然としか分からなかったプレゼンス(気付き)、ビーイング(在ること)、ハートについて主宰のMさんからの丁寧な説明があり、とても分かり易かったです。
これらのことが偏るとどういう事になるか…枯れ木のようにちっとも味わいが無くなる…宙に浮いて地に足が付かなくなる…フニャッとニタニタ変な感じになる…こうした別の観点から何となく腑に落ちるものが有りました。
実際のワークでは、私は初めて接したのですが、シンキングボールというチベット密教などで使われる鐘?がずっと何とも言えない響きを轟かせているのでしたが、これが実に体に反応するのです。(いや体が…と言っていいかもわかりません)
ただこの聞いているだけというか、それに身も心も任せていると…ヤッパリ始まりました!デマカセ?が…
習った覚えのない太極拳のような体動が自然と起こります。(私はかれこれ10年くらい”やらされて”います)
その後ジベリッシュというデタラメの言葉を発しながらの瞑想では、初めだけ意志的に発していたものが、すぐこれまたデマカセの発声となります。
そしてシンキングボールの音と、デマカセ体動と、デマカセのハミングとの何とも言えない無為?味なコラボにしばし浸っていたのでした。
それは日常の自意識を超えたところで起きるもので、何がどう影響を与えているのか判然としない、その三つの表現が混然一体になってるようでした。
ビーイングの瞑想はただただ安らぐというものですが、ハートの瞑想というのは全く馴染みが無かったせいかちょっと分かりづらかったです。
でも最後のまとめの瞑想に入って、あのいつものバイブレーション、恩寵に包まれる感じが持てました。
ここでは気づきもビーイングもハートも恩寵の中で一つになってしまう感じです。
こうしてワークを通して学ばせて頂き、改めて人間は頭、体、感性を与えられているものであり、このバランスが実に大事なんだな、とつくづく思いました。
Mさんとは最近巷で賑わしている、一方の観方に偏りがちな非二元的な説き方に対しても意見が合うところもありました。
ここでも”あっち側”と”こっち側”を混同することなく、一寸ブーム?(ホントはこういうのがブームになったら、この世界は終わってしまいかねません…)が頂点になった感のある今こそ、バランスあるスタンスが大切になってくると思います。(勿論私はああいう説き方そのものを否定するつもりは無いです)
又”恩寵か努力か”というのもアジス、フーマンの間では重要なテーマになっていたようですが、私の場合、普段は殆ど努力の事など意識はしてませんし、人に話すことも無いですが、結構猫のように?目敏い努力を怠らないところもあります。
それはしかし、何かに促されるものが有るからなのです。
今回は絶対に”恩寵”が無ければ行けなかっただろうことは確かな事です。
何故ならばブログは”恩寵と共にある”からです?…
(Mさん、又行きます。)







コメント (1)
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