人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

霊統

2017-07-05 15:25:41 | スピリチュアル
何度か書いている通り、私は一つの観方、理解としてノンデュアリティそのものを否定している訳ではないのです。
どういうものであれ、この"一つの..."ということが蔑ろにされて、極端な、片寄った観方がのさばり出すのが問題だと思っているのです。
だって、それこそは"分離"というものでしょう...
要するに今日流行の...(いや下火か)ノンデュアリティというのは、実に舌ったらず、重要な"つなぎめ"が抜け落ちている、と言わざるを得ません。

"精神的な目覚め、エンライトメントというものは、一個人に起こるものではない" とは私が近頃ますます強く感じていることです。
まず、それはこの限りある自分が、どんなに頑張ったところで、なんらかの見えざる導き無しには起こり得ないものでしょう。
私には、目覚めとは見えざる導師の臨在と共にあるのです。
では、見えざる導師とは世にいう守護霊のことでしょうか? もとより霊感者でない、凡人の私には知る由もありません。
それはただ、リアルに導きをもたらしているという強烈な実感を通じて示されるだけです。
そしてそれは又深い意識の中で、ある時空を越えたつながりへと導きます。
普遍性というのはこの消息を伝えているものですが、それは超空間的な世界的、人類的つながりと、超時間的悠久なるつながりとが重合されているのです。
横の世界人類的つながり、縦に歴史的つながりの焦点、交点に自己が置かれているという感じです。これは無量寿、無量光たる阿弥陀仏、十字架のキリストの玄義とも言えるでしょう。
その超歴史的連なり...連綿たるその血統とも違う、霊なる命が貫く一系なるつながり...ここにこそ、私のルーツ、大本があるi
この見える私は血統のみならず、その霊統ともいうべきものに連なっていたのですi
そして、見えざる導師とは、この霊統から来ている...大本の私と別のものではないのです。私に実感されたのは、肉の親より分かちがたく結び付いた、ミタマ親といったものです。
大調和協会では、会主、命御(みょうご)様を通じて、"大統のハタラキ"と呼び習われていた言葉がありますが、この霊統を言い表していたのでしょうか?
こういう消息を何よりも伝えているのは、我が国のカムナガラの道でしょう。
皇統というものがあります。日継ぐの道です。霊を継ぐ、霊なる命が継承されている道です。
天皇は国民の象徴と言いますが、これは人皆の霊なるつながりを象徴しているのではないでしょうか?
この意味で、全ての人は、天津日嗣之尊の末裔なのです。
これが何で右傾化なのでしょうか?...どこに軍国主義との接点があるのでしょうかi
そこに象徴されている、"人間は、神的なものとのつながりにおいて生きていること"
観方、感じ方は人それぞれであり、ここでは私に示されたものの一端を記しているのですが、どういうものにせよ、この、人々の意識の中に根付かれることなく、歪められているものこそ、人間が生きる上で真っ先に知らねばならないことではありませんか?
多くの人々には、この普遍的つながりは絶たれてしまっているのかもしれません。
それはしかし、意識の表層だけのことであり、その奥底では連綿とこのものが息づいているのです。
このもの無くして、"全的生"への覚醒もあり得ず、自己そのものが実存することさえ出来得ないのです。
信仰も修行もこの霊統に根差したものこそ生きたものとなるでしょう





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全一なるものの証

2017-07-02 16:12:11 | 現臨、ハタラキ
仏陀の悟道、キリストの福音、老子の無為自然の道、わがカムナガラの道...
道の教えは古今東西数多あれど、"一にして全てなるもの"を証していないものは無いのではないでしょうか?
世に仏教と言われ、キリスト教と言われる宗派があるとされています。
だが、その内実に息づいているものは、ただ全一の道があるのみでしょう。
一つの道に全てが包まれている、そこにも、ここにもまるごとが遍在している...あらゆる相対に絶して、全てにあまねく通っているのが、全一というものです。
全一の道に相対対立などあるかろうはずがありません。
そして、それは又今もなお、現実に生きてハタライているものの証でないものはないでしょう。
これを宗教といった、枠組みで納めることなど出来ようはずがありません。
仏教、キリスト教等を対象化して、此岸から向こうを眺めるように、前方にあるものを追いかけるように求めて続けても、生きた全一なるものは捉えられようはずもありません。
どうしたら、そういう心境になれるのか...目覚めに、光に預かれるのか...
観念的に教えを信じたらよい...心がけを変えたらよい...もっともらしい科学的な説明で納得する...
頭は納得しても、この身はちっとも頷いてはくれない...
それもそのはず、生きたハタラキがここに現存していないのです。
否、そもそも生ける現存、現臨無くしてあなたも私も現存すらしていないのです。
私が現存する時、彼岸に求めていた神、真理を目の当たりにするのです。
この問題だらけの私が一歩一歩業因縁を消し去って、神に近付こうと図ろうとしても、このなにもかもが行き詰まり、矛盾を抱えたこのシャバがそうはさせてくれません。
業というものに一度でも、向き合い、そこで自分の限界というものを味わった人ならお分かりのように、それは一個人がどうこう出来る問題ではないのです。
この世界の現実が如実に物語っているではありませんかi あなたや私が苦しんでいるのでは無い...人類が苦しんでいるのですi
だが...裏を返せば、この事は人類が目覚めれば、全体が救われるなら、あなたも私も目覚め、救われるということを意味してはいないでしょうか...又自分が目覚めたように感じたならば、そこには普遍世界の現成というものが開かれるのではあるまいか...
自己が悟る、誰それは目覚めているという...しかし、一個人の悟りなどというものがあり得るでしょうか? それは、一にして全てに起こることだから...
一コの自分が生きているんじゃない...全体だけでもない...一にして全てのものが生きているのです。
握っているものを手放せば...否、手放してくれるものがある...ハタラキにゆだねるのみ...

このブログで幾度か書かされていることですが、どういうものが言い表そうと促しているのかは、いつもヒシヒシと身に覚えさせられています。
このブログで私が頻繁に使っている、"ハタラキ"、"身に覚える"といった表現は、いずれも私が縁を持った「大調和協会」で慣用となっている言葉から借りているものです。
イイカゲンなもので、その意味合いは、同会で理解されている通りのものなのかどうかは分かりません。何しろそこでの私の立ち位置というものは、単なるオブザーバーの域を出ないものだったのですから...
ただ、私の気持ちには、このまま片田舎の一弱小教団の事として埋もれたままになってしまうことには、どうにも我慢のならない思いにさせられるものがあります。
その内実は、ずっと私の内部で、そこと具体的に縁付く以前から息づいているものだからです。
私は、ただその深みからの促しにうち任していく他はありません。
全ての生きた道は、どのような現れであれ、表に顕れ出ざるを得ません。我々がそれらに触れているものは、その証ばかりなのですから...この見える現実世界の普遍的領域へと歩み出てくる...その音が聞こえてくる...その確かな手応えを感じながら...。


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私の全てがモノ語る

2017-07-01 12:33:38 | 秘教、その他団体
"それ 自身に...存りて 全てであり
それ 自体に...在りて 一切である
それ 自身に...明らかなる
それ 自体が...自らを 業らきする

自己の「真理」は、
総ての自他の 真理であらねばならぬ。
自身の「真実」は、
全ての彼此の 真実であらねばならない。
自己の「中心」は、同時に
自他一切の 中心であらねばならぬ。
自己の「根本」は、
同時に彼此悉皆の 根本であらねばならない。"

命御「大調和協会.聖語集」より

兵庫県は高砂市、通称播磨富士と呼ばれ、古来より霊山と称えられている、高御位山の麓に大調和協会なる団体があります。
と言いましても、私はそこへは十年以上ご無沙汰しているので、今はどうなっているのかわかりません。
ひょっとして1コの寺院になってしまったのか? ここへ訪れようとする人というのは先祖供養の相談なのでしょうか? それともその附属機関で断食の修養に来るのでしょうか?
昔から地元の人間にも、宗教団体なのか、修養団体なのか、あるいは秘密結社なのか...その存在はベールに包まれていたのでした。
余程の何らかのとっかかりが無くして、そこに縁付くことは難しいことです。
こちらから何かの信仰や思想、自己変革の方法等を求めて、その会得に預かろうとしようにも、握ろうとするとスルスルとその手から抜けていくばかりです。
私は? ...さあ...その事を考えてみても、霧の中に霞んでしまっているようで...一体なんで又東京からわざわざ生活の拠点を移してしまうことまでになってしまったのか...
ただ...その微睡みの中にくっきりと写し出しているものがあります。
私は...捉えられてしまったのです...
私はこの活ける身語を自分の信仰や思想に貶めようとしたこともあります。
だが、それが他から持ち込まれた時、耐え難い息苦しさ、身も心も塞がってしまうような気分にさせられ、その握ろうとする手を放さざるを得なくなりました。
このものに手をかけることなど許されないi このものはそれ自体で生きている...
それは絶対に世に出なければならない...否世に出ずにおれないもの。
今、顕れ出ようとしているi
一コの信仰、思想、修行方法なら、そこらじゅうに溢れているからもういいでしょう。
一にして全てなるものがモノを言っているのですi それはどんなこの世の信仰、思想等にも置き換えることは出来ませんi
全ての私が、一切における私がモノを言っている...
そこで言葉をしていたのは、私という人類...何人に知られることはなくとも...
自己と全ての本当を垣間見せられた私は、その証をし続けざるを得ないのです...。

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