人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

始めにハタラキありき

2017-09-18 15:53:15 | 現臨、ハタラキ
私はよく"意識が神的ハタラキのようなものに向かうと、それにつながることが出来る"などと言ったりします。
そのハタラキは又"意識されたところにハタラク"とも ...
("んなこと言われてもチンプンカンプンでんがな"という人もおられるかもしれませんが、別にここで何かの秘伝を教示するつもりなどなく、私伝の妙ちきりんな"方法なき何かの道"ということで、参考までにお付き合い下さい)
かように意識というものの人間生命との関わりたるや、実に絶大なものがある、と言わざるを得ません。
この意識は、我々の頭の中でいつも思いというものに幾重にも覆われているために自覚出来ないでいるのです。つまり意識出来ないのです。
その自意識で捉えることすら困難な意識なるものが、そうしようと思わなくてもその何かに向いちゃう、なんて話全く取り付くシマのない話ですね。
"とにかくその意識を向けるのか、向かっちゃうとかしなければ事が進まない、そうなるのが先決だ ..." 何て事は私は考えたことがありません。いつの間にかそうなってしまうからです。これが"自ずと意識が向く"と言っていることなのですが、本当は先に意識がこうならねば、あらねばってことじゃないのです。
ハタラキが先にあるのです。"始めにハタラキありき"です。
そうでなければ、いつもアチコチさ迷ってたり、"地球は過去60何回、生まれ変わってる..."とか、どうでもいいことに囚われてたりしている、思いの覆いを越えて意識がそっちに赴くということは無いでしょう。
これは例えば、砂場に磁石を置いて、鉄分ばかりがそれに惹き付けられてしまうようなことです。
ヨガ瞑想などでやってるように、意識を(意念によって)その中心とされるあるチャクラなりに集中しようとしなくとも、自ずとある中心へと集まってくる(それは具体的な身体のある部位とは限りません)というのもこうした理によるのでしょう。
又、瞑想でも禅でも、実修したことのある人なら誰でも、絶え間なく去来する雑念をどう扱うか、"考えているという事態をどうするか考える"、ということが問題になるのではないでしょうか? 
このことに関して五井先生は、"出てくる思いを消えてゆく姿にする"というある種の観法を伝えています。
又、元波動瞑想という実にシンプルな瞑想を伝えているK先生は、"思いを切って捨てる"と、ニュアンスはちょっと違うかもしれませんが、そうすれば思いは消えるものだ、と相通じることを教えています。
いずれも"無理なく自然に"ということが根本になっていて、やり易いものではあります。
ただ、私には(これは微妙なことなのですが)そうしよう、やろうとする自分、意念というものにどうしても捉えられ勝ちになるところがあるのです。
しかし、それも意識がハタラキに向かうことで、自ずと思いから離れることが出来ます。ハタラキは、思いを超えているものだから...
あまり意念が介入することなく、ただそれにゆだねられるのです。
ハタラキにある時、自分がどうこうしなくとも、思いと意識とを切り離そうとハタラクのです。
このことはあらゆる人生の表側と裏側の接点にハタライているのでしょう。

私の人生である時、忽念とこのハタラキ的なものが自覚されました。
だが、そこには全く世の初めからそこにあったものとして強烈に感じられたのです。
このものによって私がここに存在しているように...
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幻の映画

2017-09-17 13:44:34 | 映画・音楽など
このブログは、ずっと日の当たらない世界で生きてきた私の、自己満足に過ぎないようなことを書いているのですが、6月中旬PCの故障で10日ばかり休みを余儀なくされてから何故か閲覧、訪問共にUPしています。有り難い話ですが、これは何かの間違いなのでは?
それでも、私は日の当たる世界とは無縁のままでしょう。どうもそういうところに出た途端、自分が自分で無くなるような、吸血鬼のように存在が消えちゃうような気がしますから...
"おっi こんなところにこんなものが...めーっけi" ...といった、私自身が人生のある種の醍醐味に感じているようなことをこれからも書いていくつもりです。よろしければご随意にお付き合い下さい。

という訳で、"X"色の強いこのブログでも今回は一際その色の濃いものを書いてみます。
高一の夏、その時一度しかテレビで観たことが無い映画についてです。
ビデオ、DVD化されているかどうかも、ネットでデータを探しても出てきません。50年代に作られた米映画のようです。確か放映時のタイトルは...
「リリーと新聞売りの少年」
だったと思います。どういう映画かはタイトルから大体想像出来ました。
"どうせ、ささやかな感動美談かなんかだろう..."と...高一ときたらやたらと背伸びしたがったり、強がったり、大人びようとしたりする、ピークの頃じゃないですか。私は"こーゆー映画にイチイチ感動して、ウルウルしてる訳にゃいかんのだi"と思いつつ(じゃ、観なきゃいいだろi)、何も期待しないで観ていたのですが、もう数分で、別のところに目が釘付けになってしまいました。
主人公の脚が不自由で、車イス生活を余儀なくされている少女が、もうホントに驚異的な美少女だったからですi 若い頃のリズ.テーラーをもしのぐくらいです。
この女優さんは、確か「スコッティ.ベケット」という名だと思いましたが、やはり検索しても出てきません。(どっかに写真は無いものでしょうか)
こんな訳でもう、ストーリーなんかはそっちのけになってしまったのですが、想像出来るように分かりやすいものです。といってもウル覚えですが...
このリリーという少女と貧しい新聞売りの少年との間に友情が芽生え(淡い恋心もあったかもしれない)、少年は、ある時少女のために泥棒を働いてしまったか、濡れ衣を着せられてしまったか(定かでない)したのですが、少年にしかるべき裁きが下される刹那、「彼は悪くないi」と、スックと少女は、車イスから立ち上がって強く訴える ...
(おやっi その後似たような場面をアニメで観たぞう...それは誰もが知ってる名シーンですが、私には誰も知ってそうにないそのシーンの既視感が過りました)
"こういうクライマックスはもう、分かっている...涙腺があっけなく崩壊してしまうのも...分かっていたとも..."
私はこの時分は、フツーにカッコつけた高校生を演じて生きようとしていました。
でも、表向きにそう成りすまそうとする、自分の思いに反して、突然どんなに拭い去ろうとしても胸の辺りからもたげてくる侵入者が訪れるのを、その数ヵ月前、中学の終わり頃から知っていました。
内心は彼に屈服したかったのです。この甘美な侵入者により、私にこの映画の内容を完全に越え出た心象世界が開かれました。
言葉にならない愛、哀感に包まれた状態が数日間続きました。映画を観てそうなったというのは、他に記憶がありません。
何とも"X"に包まれた、幻の映画です。


コメント (5)
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苦しみなき悲しみ

2017-09-16 11:59:24 | 雑感
私は自分で思っている以上に多感な人間なのかもしれません。
周りの同年代の化石(見た目です)のような人たちを見るにつけ、そう感じてきます。
(ああ...私もいずれああなってしまうのだろうか ...悲しいことです。しかし、そうなった時おそらく悲しいと感じなくなることでしょう。これは幸福なことなのだろうか、それとも...)
ものすごーくクールなところもあるんですが...ロックコンサートとか皆が熱狂的になっている場に溶け込んだということがありません。
キリスト教の聖霊のリバイバル集会のような場でも、ハイ状態になったことがありません。
大体、躁状的なものにはほとんど反応しないようです。
ただ、一人鬱状態になったように、物悲しく一点を見つめていたりすることがあります。
こんな時、すごーく多感な状態になっていて、数日間続くことがあるのです。
これはどう言ったらいいのか、悲哀がともなっているのは確かなのですが、とても甘美なものも感じられ、苦しみは感じられません。
気分は沈鬱なものでは全くないのです。といって憂愁な気分なので、幸福感というものは当たらないですが、知らず知らずに愛に包まれているのは確かなことです。
これはあの"現臨に捉えられてしまうこと"に通じているのでしょう。
こういう時自分自身を取り戻したように感じられてきます。それは癒しなのです。
覚えている限り、最初にそういう状態になったのは、中学卒業時、片想いのコに思いを打ち明けられないまま、別れてしまったことが切っ掛けでした。
そのコのことが頭から離れられない ... というより、すべての悲しみ、哀れみ、愛おしさがそのコに結びつけられてしまう...ラジオから聞こえてくるニルソンの「ウイズアウト.ユー」が胸を締め付ける ...
(化石のような人にも誰でも経験あるでしょ?)こういう事というのは、絶対にその切っ掛けとなった相手のことのみからは生まれてきません。
ハートから呼び覚まされるものなのです。私はその時初めて知ったのです。
"僕には僕を超えた何かがある"と...愛については誰からも教わった事が無い...それは教わって分かるものでもなし...ふと胸の辺りが開かれて分かるもの...
同様の事が、それから一年の間に2、3度ありました。切っ掛けはある映画を観たことだったり、女性タレントに夢中になったことだったり、実に他愛の無いものです。
しかし...私には、人にはどんなに他愛の無いものでも、一大事になってしまうことがいくらでもあります。
ずーっと心の底に息づいていて、忘れることが出来ない ...実に大きな事ではありませんかi
そこには、恋愛感情とか映画を観た感動など、表層には様々な感情が入り雑じっているものですが、底の方ではあの現臨とともにある愛が染み出しているのを感じざるを得ません。それは時を越えて感じられるものです。
それは、それを得ようとしても、得られず、そうなろうとしてもなれないものです。そうして得た、そうなったと思った時、そこには無く、別のものに化けてしまうものです。
片想いしている時には感じられても、付き合っている時には...何かが違う...(そういうものなのでは?)
そこに苦しみというものは無くても、哀感というものがあるのは、得ようとしても得られない悲しみ、内にあるものが、外に表れることで何かが失われるという、悲しみが映し出されているのでしょうか?
それでも人は愛を求めずにはおれないものですね。
知らずに最愛のものに呼び覚まされるのでしょう。内なるものと外なるものが結ばれるまで ...いく世を通じても...
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見えないものが見えてきた

2017-09-14 16:44:22 | 現臨、ハタラキ
ブログを開始して丸三年が経ちました。
よくもまあ、テキトーなことを書き連ねてきたものだと思います(笑)
ある記事だけしか読まなかったら、これは一体何のブログだか分からないでしょう。
エ? ずっと読んでても分からない? ウン...私にも分からない(笑)
ただ、当初から何かに促されているのを感じていたのですが、より精神的なことについて触れる場合、それが書き続けていくことでより明らかに、有りやかになってきたということはハッキリ言えることです。
では ...それは一体、何なのか、明らかにハッキリ言おうではないかi...それは ...
言えないi ...それは自分にそういう感じになってきたということで、形に、言葉に表せられるということではないのです。
とにかく、ハタラキ、現臨 ...そういう風にしか言い表せないものです。
これがここでの見えざる焦点...というかこのものあってのもの、私なのですi
多くのスピでは、"宇宙とつながる"とか言うのですが...ウーン...ユニバーサルなもの(普遍)とつながっているとはいえ、いきなりバーンと宇宙的、全体的なものになる感じは私にはあまりないです(感じ方はそれぞれですが)。
じゃ、それは私も一時そう思っていたことがありますが、守護霊みたいなものか?
それは何らかのガイダンスには違いありません。といって、何かをしてくれる訳でもないですが、それが顕現してくるだけで"大丈夫"な感じになります。そしてそれ自体が導きとなります。あることが意識付けられたりするからです。
何にせよ、このものを一つの属性で言い表すことは困難なのです。
超越的であり、内在的であり、普遍的であり、個的であり、絶対他者であり、自分以上に自己そのものでもあり...ま、面倒くさかったらカミサマでもいいでしょう。神とはいわく言いがたいものなのです。(それが末節なところを取り去って、普遍的人類の共通認識になったら、あっというまに世界平和は実現されるでしょう...)
以上述べてきたことを踏まえれば、何度も言うように、"神、真我、導師は同義である"というラマナ.マハルシの言葉がいよいよと身に染み透ってくるのを覚えます。
このブログは、"こうすれば幸福になる...欲しいものが手に入る..."といった多くのスピでは、おなじみの願望実現系とはまったく無縁です。
何しろ私自身がリア充とはほど遠い人生を送っている次第なので、そのようなことフレ廻ってみたところで、説得力ゼロというものでしょう。
だけどねえ ...負け惜しみで言うんじゃないですが(半分くらいはそうかもしれない)、誰が何と言おうと、このものにある時幸福で居られるのですi
"それが臨んだとして、どうして幸福とつながるんですか、得られるんですか?"とは、多くの人が思うことかもしれません。いいや、それが臨むこと自体が幸福なのですi
"それはあまりに現実的でない、あなたの幻想なのでは?"という向きもおられるでしょう。
しかしですねえ ...人生で心の底に息づいているのは、細胞レベルのように身に覚えられているのは、自覚の有る無しに関わらず、これと共にあることなのです。
今、それを感じていることで、過去にも今にも時間を越えて息づいているということが分かります。これ以上現存するものはないと言ってもいいでしょう。それが私が、"現臨"と呼んでいる由縁です。
とにかく、私は自分自身の備忘録的なものとしても、何らかの伝達としても書いているのか、書かされているのかしている次第なのです。
いよいよ見えないものが現実化してくる、見えてくる、という感覚と共に...。
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愛の代償

2017-09-12 16:14:24 | 
僕は自分が好きなもの、欲しいものは大概のものは手に入れてきた
自分が何に惹かれるということがハッキリあって、他のものは眼中に無いからだろう
自分が惹かれるもの、好きなもの...それはもう徹底している
妥協など許されないi
人が、世の中が、煽るようなものにおもねる訳にゃいかないi
だけど...君のことは ...
好きで好きでたまらないのに ...何故?
思いが募り、焦がれるほど、君は遠ざかって行く
僕は一体、影を追い求めているのか
頭の中のストーリーばかりを思い描いているだけなのか
君はモノじゃないから手に入れようというのが間違っているのか
いいや...僕の方が君を遠ざけていたんだ
遠ざけることばかりしてきた
イロイロと目移りがしてしょうがない
毎日毎日、毎瞬毎瞬、違う顔
妥協に次ぐ妥協
ああ ...なんという情念の浪費
つくづくイヤになる、このサガ...
もう、男にゃ生まれたくない
でも...男じゃなけりゃ君を好きになれない
こんなこととても言えた義理じゃないけれど...
ずっと一番好きだったのは、君のことだった...ホントだよ...

何と愛想のつきる話なんだろう...
この代償は...実らぬ愛...
30代で"もう、愛だの恋だのって年じゃない"と言ってる者も居たが、
僕は年甲斐もなく、今もときめいてしまう
何と愛想のつきる話なんだろう...
どんなに僕がそれを踏みにじってきたとしても、
初めの愛を裏切ってきたとしても、
僕はいつも愛を求めてきた
一番惹かれるものは、一番弱いもの、苦しいものの中にある
そこは、常に希求と幻滅とに引き裂かされていた
最愛のものは手に入らないのかもしれない
最愛のものは、自分がそこに落ちるしかないのだろう
僕はそのために生まれてきたのだろうか
それに預かるには、別のものと引き換えなければならなかったのだろうか ...
愛の代償...

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